人間の心をもっているがゆえの悲哀
カミュの『ペスト』とともに不条理文学の双璧とも言われるこの作品は、1912年、オーストリア出身の作家・フランツ・カフカによって執筆された。
不条理とは、理屈では説明できないこと。われわれ人間は、それを特殊なこととしてとらえているが、はたしてそうだろうか。宇宙の秩序しかり、現今の新型コロナウイルス禍しかり。世の中は説明できないことばかり。じつは、私たちは不条理のなかで生きているのだ。理屈で説明できるものなど、髪の毛の先ほどしかない。
カフカはひたすら不条理を描いた。『審判』や『城』もそうだ。理屈では説明できない。だから読者は不安を抱く。物語が進むうち、解決するかもしれないとかすかな希望を持ちつつ、ついには裏切られることになる。結末まで読んでもすっきりしない。しかし、だからこそいつまでも脳裡に残る。そして、目先のことのなかに説明できる現象を見出し、安寧を覚える。
カフカはすっきりしない情況を描くことで読者の心に重石を形成する。そもそもが確信犯的な作家なのだ。
販売員として一家を支えている青年グレーゴル・ザムザは、ある朝ベッドで目覚めると、自分が毒虫になってしまっていることに気がつく。仰向けのまま、仕事のことをつらつらと考える。出張が多く、顧客も頻繁に変わるから深い人間関係ができない。朝が早いのもつらい。しかし、両親には多額の借金があり、それを返すまではその仕事を続けるしかない。が、虫になってしまった今となってはそれもできない。
やがて家族に自分の姿を見られてしまう。両親や妹はグレゴールがいきなり虫になってしまったことに驚きはするが、その事実を受け入れる。以来、彼は自室にこもってひっそりと暮らすことになる。
彼を世話してくれるのは、妹のグレーテだ。彼女は兄の姿を嫌悪しつつ、食べ物を差し入れ、部屋の掃除をする。
そのうちグレゴールは部屋の壁や天井を這い回ることを覚える。たまたまそれを見た母親は失神してしまう。とっさに父親が投げたリンゴがグレゴールの体に当たり、彼は深い傷を負ってしまう。
その後も事態はいっこうに良くならない。そもそも、なぜグレゴールが毒虫になったのか皆目わからないし、だれもそれを調べようとさえしない。
やがて頼りのグレーテは、兄を見捨てるべきだと言い、父もそれに同意する。やせ衰えたグレゴールは家族の会話を聞きながら部屋に戻り、家族への愛情を思い返しながら息絶える。
グレゴールが完全に虫に変わってしまったのであれば、ここまでの悲劇性はない。現世のうちに輪廻転生したようなものだ。しかし、彼は姿形こそ虫で話すこともできないが、心は人間のままだ。
家族がそれを知る由もない。それでも彼らは、元家族だったグレゴールを見捨てることはしない。生かさず殺さずではあるが。
しかし、時間とともに善良な家族の心も変わっていく。おそらくグレゴールに人間の心があるとわかっていれば、もう少し違った対応をしただろう。グレーテが兄を見捨てるべきだと決心したのは、グレゴールの外見が虫であり、コミュニケーションをとることができなかったからだ。
ここでハタと気づく。人間は人間以外の生き物に対して、知らず識らずそういう態度をとっていると。しかし、真実はだれにもわからない。ほかの動物や昆虫、植物たちはほんとうに心を持っていないのか。
この作品を初めて読んだのは20歳前後。それから40年の時を経て再読した。若い頃に読んだ時より、読後感がかなり変わっている。それが人生を重ねてきたということなのだろうか。
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