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紺碧の将

祈りの力

2020.05.26

 隆慶一郎の未完の大作『花と火の帝』を読み終えた。彼の死によって物語の途中で終わってしまったのは残念だが、彼のエッセンスはじゅうぶんに発揮されている。

 このところ、男代表として隆慶一郎、女代表として高樹のぶ子の作品を交互に読んでいる(後者は再読)。至福の時間である。おかげで人間という得体の知れない生き物が、ますますわからなくなる。隆慶一郎作品も残すところ、いよいよ2タイトル5冊のみ。慈しむように読みたい。

 彼は若い時分、フランス文学に親しんだこともあってか、日本人作家独特の湿気がない(私は明治から昭和初期にかけての、心理描写がダラダラと続く小説があまり好きではない)。一人の人物を作品ごとに異なる視点で描くというバルザックもどきの手法を用いているから、人物評価に偏りがないのも好感が持てる。どの作品も主人公は超人的だが、あくまでも史実をベースに書いているから荒唐無稽ではない。

『花と火の帝』は江戸時代初期における徳川家康、秀忠と後水尾天皇の闘い、いわゆる幕府と朝廷の対立を軸に物語が進む。

 とはいえ、後水尾天皇ご自身は闘わない。天皇はどんなに相手が卑劣であろうと、けっして人を殺さない。天皇にとって一人ひとりの民は、まさに赤子である。後醍醐帝の時代を除き、朝廷が民に兵を向けるなど、考えられないことだった。それを暗黙裡に理解しているからこそ、日本人は天皇に対して絶対的ともいえる信頼を寄せている。けっして一方的な信頼関係ではない。相互信頼なのだ。

 では、なぜ天皇は人を殺さないのか? 殺せば、かならず殺しの報いが起こることを知っているから。天皇御自ら憎しみの連鎖を断っておられるのだ。

 なるほどと思った。人類史には「目には目を歯には歯を」という事例はたくさんある。カトリックとプロテスタント、あるいはイスラム教の宗派の対立など、日本人には考えられないような残忍な方法で殺し合った歴史があまたあるのである。しかし、日本において、殺しの連鎖はほとんどなかったと言っていい。なぜなら、天皇が憎しみに対処するお手本を示されていたからだ。それが社会全体に息づいているからこそ、組織の首領らが責任をとれば、彼に従っていた者たちの罪は問わなかった。私は、織田信長以外、ジェノサイド(大量虐殺)をした日本人を知らない。

 ふと思った。どんなに相手が極悪でも、自分から攻めることはしないというのは現憲法の理念ではないか。アメリカ人が作ったものとはいえ、結果的に現日本国憲法は天皇家に脈打っている不戦の大原則を踏襲したものといえる。

 しかし、やはり残念ながら(日本国内においては)というカッコ書きが必要だろう。日本国憲法前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生命を保持しようと決意した」と明記されているが、中国や北朝鮮、ロシア、韓国など、わが国の近隣を見渡してみても、とても「平和を愛する諸国」と思えない国がたくさんある。悲しいかな、理想主義だけでは国民の命は守れない。

 ところで『花と火の帝』には、呪術師について詳しく書かれている。人の心を読むなど朝飯前。盥(たらい)の水に数百キロ離れたところにいる人の行為を映し、脚の骨を折ることもできた。瞬間的に数百メートルも移動することができた。2、3跳びで高い樹の梢に移ることもできた。荒唐無稽にも思えるが、ボルダリングの一流選手が5階建てのビルに相当する高さまで昇るのにわずか5秒しか要さないというのを聞けば、さほど荒唐無稽な話ではない。命がけの修行をした昔の人なら、現代人が想像もできないような能力を持っていただろう。

 便利になればなるほど、祈りの力は減退する。祈りを非現実的な行為だと決めつける人が少なくないが、それは勘違いというものだ。その昔、祈りはさまざまなところに満ち満ちていた。道端のお地蔵さんもその片鱗である。

 

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(200526 第995回)

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