ひとり静かに山と対話する
北アルプス最高峰・奥穂高岳のすぐ下にある穂高岳山荘の元支配人であり、遭難救助隊員でもあった宮田八郎をテーマにしたテレビ番組を見たことがある。
宮田は穂高岳を愛し、仲間とともに遭難者を助けてきたが、2018年、海難事故で亡くなった(石塚真一氏作の漫画『岳』に登場する宮川三郎のモデルも彼である)。
ある時期、宮田は迷いを払いのけられずにいた。命がけで遭難者を助けても助けても、遭難事故はなくならない。無事、救出できることもあれば、死んでしまうこともある。自分がこれほど愛する山は、もしかすると悪い存在なのではないか、登山という行為は人に迷惑をかける、悪い行為なのではないか、と。
煩悶するが、答えはなかなか見つからない。
苦しみ続けた宮田が、「山が悪いわけではない。山はこんなにも素晴らしいのだから、山に登りたくなるのは当然だ」と思い至るきっかけになったのが、串田孫一の『山のパンセ』だったという。
無類の山好きだった串田が、登山について書いたエッセイをまとめたものだ。「パンセ」とは思想を言い、パスカルの『パンセ』をもじったことは間違いないだろう。
筆者も登山を好むが、串田からすれば、邪道の烙印を押されるのは必定。
串田は冬山でも野宿をする。スキー板をかついで登り、道なき道を滑り降りてくるのを楽しむ。スキー場でスキーに興じる人たちに、冷たい視線を向ける。くねくねとダンスのような格好で曲がりながら滑るのは滑稽だと言ってはばからない。リフトも批判の対象だ。食事つきの山小屋に泊まることも邪道だと断罪される。
ひとことでいえば、かなり気難しい山好きなのだが、それほどに山を愛していたのだろう。冬山の夜の一人歩きも平気だった。
孤独をなんとも思っていなかったのだ。自ら望んで行ったから、孤独と感じなかったにちがいない。
どの項もとりたてて物語性があるわけではない。山での静かな時間が淡々と綴られているからこそ伝わってくるものがある。
ひとつ合点がいかなかったことは、自衛隊に対する、憎悪ともとれる偏見に満ちていること。「自衛隊のやっていることは、私の知っている限りでは気に食わないことばかりだ」と言ってはばからず、自衛隊の宿営所を〝巣〟とまで表現する。正直、そのあまりに偏狭なものの見方に辟易した。いざというとき、身を張って国民の楯となる覚悟のある人たちに対して、あまりの言いようなのだ。
たぶん、串田は世の中が気に食わないことで満ちていたのだろう。あれもこれも気に食わない、と。だから、ひっそりと山に入り、自然と、そして自分と向き合ったにちがいない。
本書を褒めているのかけなしているのかわからなくなったが、時にはそういう本があってもいいだろう。辺見庸の『物食う人々』を読んだときも感じたが、イデオロギーを前面に出しすぎている本に愛着は感じられない。右であっても左であっても。
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