風を見よう
子どもの頃、風と友だちになりたいと思っていたという友人がいる。
風は明らかに実感できるのに、見えない。見えないが、自分の近くに必ずいるはず。その風と友だちになりたい……。
じつに素晴らしい感性だと思う。
たしかに大人の感性で計れば、荒唐無稽の話かもしれない。しかし、風はまちがいなく存在する。科学的に分析すれば、ただの空気の移動に過ぎないのかもしれない。だから、風という実体はなく、「無」なのだ、と。
しかし、自然の営みをありのままに見つめれば、風という実体は明らかに存在し、私たちの周りでいろいろと自己の存在をアピールしていることに気づく。いつから、私たち大人は、風をただの空気の移動だと思い込むようになったのだろう。
「最近、高久さんのブログは自然への畏敬かカズオさんか猫の海ちゃんについての話ばかりじゃないか」という声が聞こえてきそうだ。
たしかにそうだ。カズオさんと海はご愛敬として、自然への畏敬の念は増すばかり。どうして今まで、そのような単純なことに気がつかなかったのだろう。不思議で仕方がない。
このブログの数回前、「空を見よう」というテーマでいくつか書いた。その調子でいえば、今回はさしずめ「風を見よう」だろう。風格、風情、風聞、家風、校風、風袋、風船、風邪……、本来の「Wind」という意味以外で使われる「風」のなんと多いことよ。それだけ、いにしえの人たちは風を感じていたのだろう。
日常のなかで、しばし気を鎮め、風の存在を感じてみよう。きっと、あなたの内面で何かが変わるはずである。
(110214 第229回 写真は新宿御苑の池の風紋)