日々、無事のありがたさ
どうも気持ちが落ち着かない。その理由はわかっている。原発の問題、被災地の方々の苦労、そして何よりこの国の先行きを憂えないわけにはいかないからだ。
ただでさえ日本は財政が破綻寸前で、このままの状態が進めばあと数年でパンクするという状態だったのに、今回の地震災害でとてつもない課題を与えられてしまった。例えていえば、病気で歩くのもままならないのに、いきなり重い荷物を背負わされたようなもの。どうやってその重い荷物を運ぶのか、考えただけで気が遠くなる。
しかし、この世を統べている存在があるとすれば、何も意味がなく今回のような試練を日本人に与えることはしないはずだ、とも思う。
──冬というものが存在しなければ、春というものはやってこない。植物も冬の厳しい冬の時代に、どれだけ地中に根を張って、どれだけ養分を吸収し蓄えたかで、春になったときの花の咲かせ方が変わってくる。これは自然の法則だ。人間も、自然の法則のなかで生きているんだから、人間もまたそうであるはずだ。
この文章は、宮本輝が書いた『ここに地終わり 海始まる』という長編の中の一節である。特別に目新しい発想ではないが、妙にこの言葉の意味が気になる。
「ご無事で」という言葉はふだん挨拶がわりに使われる。しかし、本当に「無事」でいることの大切さを感じることは滅多にない。
当たり前のように日常生活をおくれて、当たり前のように今日と同じような日がこれからもやってくると信じることができる。それが実はとてつもなく幸せなことだということを、今回の災害で一瞬にして命を奪われた人たちは教えてくれた。
残された私たちは、「日常」生活において、何ができるのだろうと考え、実行に移す義務がある。それはすべての日本人に突きつけられた課題でもあるのだ。
「毎日が元旦、毎日が余命一週間」のつもりで生きていこうと心に誓ったはずなのに、そうはなっていない。もう一度、それを肝に銘じる髙久であった。
(110409 第242回 写真は時々使うカフェのテラス。とりたてて変哲もない風景だが、こういうところで穏やかにコーヒーを飲める幸せをあらためて肝に銘じなければ)