シイの木の瘤に何が詰まっている?
代々木公園から続く明治神宮御苑は好きなエリアのひとつである。
なんといっても、近代国家の黎明期に強いリーダーとして重要な役割を果たされた明治天皇を祀っている神社があること、当時全国から集められた木々がりっぱに育ち、鬱蒼とした森になっていること、そしてユニークな形の植物が多いことなどが、その理由である。
右の写真をご覧あれ。参道に生えているシイの木だが、その根本にあるいくつもの瘤は、いったいなにゆえにできたものか。人面に見立てることのできる瘤が5つくらいあることに驚かされる。明治期は列強の脅威と内乱が同時に進行し、大久保利通など政治を預かる人たちは並々ならぬ舵取りを余儀なくされた。他国からの侵略に備え、富国強兵政策を推し進めたために、多くの国民が塗炭の苦しみを味わった。後半は日清・日露戦争という国難があった。いわば、当時の国民の喜怒哀楽がこのシイの木の根元に集まっていて、それがためにこのような形になったと考えても不思議ではあるまい。
参道を箒で掃き清めていたオジサンに、「あの木はなんですか?」と訊ねた。
「あー、あれね、あれはシイの木っつんだ。こごには変な形をした木がいっぱいあっから」
なぜか東北弁だった。
なるほど、奇妙な形をした木がいくつもある。
Wikipediaを見ると、明治神宮について下のような解説がなされている。こなれていない文章でわかりにくいが、勉強になるので一部抜粋のうえ転載する。
1912年(明治45年)に明治天皇が崩御し、立憲君主国家としては初の君主の大葬であったがその死に関する法律はなく、何らかの記念(紀念とも)するための行事が計画される。その事業は程なく予定されていた明治天皇即位50周年のものを引き継ぎ(明治天皇の銅像、帝国議会、博物館などさまざまな案があった)、続いて、1914年(大正3年)に皇后であった昭憲皇太后が崩御すると、政府は神社奉祀調査会を設置して審議し、大正天皇の裁可を受けて,1915年(大正4年)官幣大社明治神宮を創建することが内務省告示で発表された。
明治天皇が「うつせみの代々木の里はしづかにて都のほかのここちこそすれ」と詠んだ代々木の南豊島世伝御料地を境内地として造営が行われた。1920年(大正9年)11月1日に鎮座祭が行われた。ちなみに、この御料地はかつて近江彦根藩井伊家の下屋敷のあった場所で、明治維新後に井伊家から政府に対して献上されたものである。
面積約70万平方メートルの境内はそのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、現在の深い杜の木々は全国よりの献木を青年団が植樹したものである。また、本殿を中心に厄除・七五三などを祈願を行う神楽殿、「明治時代の宮廷文化を偲ぶ御祭神ゆかりの御物を陳列する」宝物殿、「御祭神の大御心を通じて健全なる日本精神を育成する」至誠館などがある。
というような説明だが、実際、当時の子どもたちまでがわずかなこづかいをはたいて木を買い、代々木に送ってきたという。全国から集まった数十万本の木は、植生を考慮し、計画的に植樹された。現在、私たちが見る神宮の森は、当時の人の「思いの結晶」なのだと思う。
(110507 第249回 写真は明治神宮参道のシイの木)