人間の声こそが最高の楽器
数年ぶりに会った音楽好きの知人が、開口一番こう言った。
「去年は最高でしたよ。なんとマーラーの8番を生で聴けたのですから」
マーラーの8番といえば「千人の交響曲」というタイトルのついた長大な曲。1000人とはいわずとも、およそ800人が舞台に立ち、空前絶後の音楽世界を構築する、あの超弩級の交響曲だ。合唱で始まるという構成も異色。最初から最後までソロ歌手と合唱が活躍する。1時間20分前後、音の洪水が逆巻く。
知人の話を聞いた私は、すぐにその曲のイメージが浮かばなかった。マーラーの1、4、5番は愛聴していたが、8番は超大過ぎるとして敬遠していた。しかし、食わず嫌いはいけないと、それから1ヶ月毎日聴き続けた。それが功を奏して、やがて馴染みの曲になった。
余談ながら、それに気を良くして、以来毎月、集中して聴く曲を選び、聴き続けている。主旨は「その曲と仲良くなる」ということ。こちらから接近し、相手の素性を深く知れば、親密度はいやおうなく増す。このことは人間関係においても言えることだろう(人間関係のほうが難しいが)。ちなみに今月は、ドビュッシーとプーランクのチェロ・ソナタを選んだ。
この曲の初演はマーラー自身の指揮で1910年9月12日、ミュンヘンで行われた。マーラーといえば、今では作曲家として名前が通っているが、当時は指揮者としての名声が高かった。
この曲についてマーラーは知人に宛てた手紙にこう書いている。
「これまでの私の作品の中で最大のものであり、内容も形式も独特なので、言葉で表現することができません。大宇宙が響き始める様子を想像してください。それは、もはや人間の声ではなく、運行する惑星であり、太陽です」
「これまでの私の交響曲はすべてこの曲に対する序曲にすぎなかった。これまでの作品は、いずれも主観的な悲劇を扱っていたが、この交響曲では、偉大な歓喜と栄光を讃えたものである」
前述のように、第8番は大規模なオーケストラに加えて何人もの独唱者および複数の合唱団を要する大な作品である。伝統的な交響曲は4楽章構成だが、この作品は2部構成で、第1部ではラテン語賛歌「来たれ、創造主たる聖霊よ」を援用し、地上から天国の創造主に呼びかける。第2部ではゲーテの戯曲『ファウスト第2部』の終末部分を援用し、人間が天国に来ることを示している。
この曲を聴くと、あらためて人間の声こそが最高の楽器だと思える。独唱も合唱もじつに美しい。どんなに盛り上がる場面でも理知的な抑制が効き、一糸乱れぬ展開はハラハラドキドキものだ。
では、だれの演奏で聴けばいいのか? 正直、あまりに手強い相手ゆえ、いくつもの演奏を聴き比べする根気はない。私は、最も評価の高い演奏のひとつであるゲオルグ・ショルティ指揮、シカゴ響(1971年録音)をひたすら聴き続けている。スケールの大きな作品を振らせたら、ショルティははまり役だ。
彼はこう語っている。
「私はマーラーの交響曲第8番を19世紀の最後にして最高の作品と考えています。この交響曲の難しさは、観たものがそのまま頭にこびりついてしまうような巨大なオペラと同じ類のものだ。劇的なスケールでエネルギー、衝動、視野の広さが感じられる」
ショルティにそうまで言わしめるだけの完成度がある。
ところで、私はマーラー・ファンと言ってさしつかえないと思うが、人間としてのマーラーはちょっと苦手かも。マーラーの生涯を描いた映画『マーラー』という映画を見ると、なんとも独善的で陰険な人である。絶対に半径5メートル以内に近づきたくない。
もっとも、芸術家と呼ばれる人にそういう人は稀ではない。あくまでも作品と作者は別物なのだ。
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