人間は不完全だから面白い
京都の街を歩くと、ときどき禅語や格言に出くわす。寺社仏閣が多いのだから当たり前だとは思うが、ときどきハッとさせられる。東本願寺の前を歩いているときだった。
――「幸せ」を求めて争う人間
「豊かさ」を求めて争う人間
まさしくそうなのである。幸せになるために戦争をして、不幸になる。もっと豊かになろうとして戦って、貧しくなる。なんと人間は滑稽な生き物なのかと思わずにはいられない。
もうひとつ、こういう言葉もあった。
――思いをこえて生まれながら
なんでも思いどおりにしようとする私
慧眼という以外ない。この世に生まれてくるときは、宝くじに何百回も連続して当選するような低い確率をものにした。これは自分の思いをはるかに超えた、無為の仕業だった。
ところが、この世に生まれ、自分という実体をもつと、人はなんでも自分の思いどおりにしようとする。ヘンなの。
しかし、である。ここにあげた2つの言葉は真実を突いているとは思うが、それを言っても詮無いことよ、とも思う。人間が人間である以上、仕方のないことなのだ。ある意味、上掲の言葉で指摘されていることをすべての人間が克服してしまったら、それはもう人間とは言えないし、おもしろくもなんともない生き物に成り果ててしまう。
要は、「人間とはそういう生き物なのだ」ということを前提として(自他ともにそうであることを認めた上で)、それらを少しずつ克服しようと努力し続けることが重要なのではないか。その過程にこそ、その人ならではの人生観が構築され、その果てにその人なりの幸福があるのだと思う。
(210524 第1077回)
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