肝心なことは目では見えない。ものは心で見る
この本のタイトルを聞いたことがないという人はいないだろう。それほど人口に膾炙する書物である。
本書は、第二次世界大戦中の1943年、著者が亡命していたニューヨークで出版された。フランス語の原題は「小さな王子」。1953年、それを内藤濯(ないとうあろう)は「星の王子さま」と訳した。けだし名訳といえる。この邦題こそが、わが国でこれほど支持されることになる端緒になったといえる。
2005年、原書の翻訳権が消滅したあと、新訳が次々と出版された(ここで紹介するのは池澤夏樹訳)。今では200以上の国と地域で翻訳されている。
なぜ、本書はこれほど世界中の人に読まれているのか。それは、平易な言葉で文明批判や愛と孤独についての哲学的考察など、深遠なテーマを追求しているからだろう。ファンタジックな物語という〝容れ物〟は、見せかけに過ぎない。柔らかな覆いものの下には、筋金が入っているのだ。こういう作品ほど手強いものはない。
物語はいたってシンプル。砂漠に不時着した飛行士「ぼく」の前に、不思議な少年が現れる。彼はある小惑星からやって来た王子だという。王子の星はふつうの家くらいの大きさで、そこには3つの火山と、根を張って星を割いてしまうほど大きくなるバオバブの芽と、よその星からやってきた種から咲いた1輪のバラの花があるという。王子はバラの花を大切に世話していたが、ある日バラの花とけんかしたことをきっかけに、ほかの星を見に行くために旅に出た。
いくつかの星を巡ったあと、王子は地球に降り立った。そして、高い火山や数千本のバラの群生を見た。自分の星の火山とバラの花を特別だと思っていた王子は、それらを見て、自分の愛した小惑星がつまらないものだと思う。
そこに、キツネが現れる。遊んで欲しいと頼む王子に、「おれは飼いならされていないから遊べない」とキツネは言う。きみがおれを飼いならしたら、おれときみは互いになくてはならない仲になる。時間をかけ、そういう関係になれば、なにを見てもそれをよすがに思い出すようになるという。これを聞いた王子は、いくらほかにたくさんのバラがあろうとも、自分が一生懸命世話をしたバラは愛おしく、自分にとって一番美しいバラなのだと悟る。
キツネと別れるとき、王子は大切なことをキツネから教えてもらう。
「じゃ秘密を言うよ。簡単なことなんだ――ものは心で見る。肝心なことは目では見えない」
そのあとも物語は続くが、この作品の〝肝〟は王子とキツネのやりとりだろう。キツネに諭されることによって、王子の心中に革命的な変化が起きる。
王子が「ぼく」にこう言うくだりがある。
「きみのところの人たちは」と王子さまは言った、
「たった1つの庭で5000本のバラを育てている……それでも自分たちが探しているものを見つけられない……」
「そうなんだよ」とぼくは答えた。
「みんなが探しているものはたった1本のバラやほんの少しの水の中に見つかるのに……」
「そのとおりだ」とぼくは言った。
王子さまはこう付け足した――
「目には見えないんだ。心で探さないとだめなのさ」
それはキツネに教えてもらったことの受け売りだろう、と腐したくもなる。しかし、学びとはすべからく、そういうものだ。先人が発見した真理や真実を咀嚼し、自分なりの知見を加え、新たな価値を創出する。その塊こそ文明である。人類の歴史は、その繰り返しのうえに成り立っている。そんな、当たり前のことに気づかされる。
本書の前置きで、この本を「小さな男の子だった頃のレオン・ウェルトに捧げる」とある。彼は、サン=テグジュペリの友人であり、ジャーナリストであり、ナチスから迫害を受けていたユダヤ人であった。
砂漠に不時着するという設定は、著者自身の体験からきている。1935年、サン=テグジュペリはリビア砂漠で飛行機を墜落させるという事故を起こしている。
よほど飛行機事故に縁があったのだろう。1943年、彼は偵察機に乗ったまま、消息不明となった。44年の生涯だった。短い人生だったが、きらりと光る物語を後世に残してくれた。
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