死んでなお、徳川の世に生きた信玄
今年は武田信玄(1521〜73年)の生誕500年。
私が最も敬愛する戦国武将は、ほかならぬ信玄である。子供の頃は、義の上杉謙信に惹かれたが、大人になってリアリズムを理解できるようになったからか、あるいは純白な心が消えてしまったのか、謙信のふるまいはうさん臭いと感じるようになった。そもそも家臣にしても農民にしても、命がけで戦に出る。勝ってもなんの褒美もなかったら、不満が出るだろう。義侠心を満足させるだけで納得する家臣はいないはずだ。
信玄は武人だが、抜群の政治センスをもっていた。甲斐という山国に生まれたハンディを乗り越え、孫子の兵法をよく理解し、諜報戦を重んじるなどして戦国最強と恐れられるまでになった。ひとえに、人心を掌握した信玄の政治センスによるものだ。信玄が居住した躑躅ヶ崎の館(現武田神社)は、周りに堀があるものの、難攻不落の城塞ではない。反旗を翻した重臣が攻め込んできたら、防ぐことはできなかったにちがいない。それでも城を構えなかったのは、家臣団を信用していたからだ(と言われている)。
よく知られるように、信玄は京都へ向けて大軍を率いて西上作戦を決行し、その途上、病気で没した。戦国の世がどのように帰趨を決したかを知らずにあの世へ行ったのだ。
しかし、信玄のエッセンスは家康に受け継がれ、江戸時代を生きることになった。
なぜ、そうなったかといえば、西上作戦の途上、三方ヶ原の戦いでこてんぱんにやっつけられた家康は、その後、終生信玄に心酔する。秀吉にも敗れなかった家康が、唯一敗れた相手が信玄である。信長であれば、自分を苦しめた相手は、一族郎党皆殺しにしたであろうが、家康は器の大きな人物だった。いいものはいいと虚心坦懐に評価する度量があった。
武田氏の法律(甲州法度次第)や軍学、兵法、治水などのインフラ政策は、江戸幕府の基本となった。自分を打ち負かした相手が遺した知恵を活かすなど、狭量な人間にできることではない。武田の家臣も数多く召し抱えた。武田の兵法を記した『甲陽軍鑑』は、江戸幕府に採用された武田軍学の基本書としてベストセラーになったほどだ。
信玄と家臣団の結束が特に厚かったという逸話と連動してか、数々の「武田二十四将図」があるが、今年、旧武州金沢藩の米倉家倉庫から、信玄と家臣総勢88人を描いた絵が発見された。それをこの目で見るため、横浜市歴史博物館へ行った。中央の信玄だけ、赤い裝束で描かれている。各武将の下には年齢も書かれている。
「死せる孔明生ける仲達を走らす」は『三国志』のなかの有名なくだりだが、この場合は「死せる信玄生ける家康を動かす」とでも言おうか。
(211129 第1104回 上は柳沢吉里作『武田二十四将図』、下は米倉家で発見された『武田八十八将図』)
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