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紺碧の将

大観の絵に見る、日本人と自然の関係

2012.09.19

 宇都宮美術館で『横山大観展』が始まった。
 絵画に興味のない人も、横山大観の名前だけは知っているだろう。岡倉天心一門の急先鋒といえば、この人をおいて他にはいない。私個人としては下村観山の方が好きだが、大観は好き嫌いを超えた存在感があると思う。
 今回の展覧会で、とても印象に残った作品がある。右の『帰路』。
 ぼやーっとした地面とぼやーっとした山とぼやーっとした空が、ぼやーっとした2本の線によって分割されているだけの、見ようによってはきわめてつまらない、また、見ようによってはきわめてイメージをかきたてられる絵だ。
 大観や菱田春草らは、日本の湿潤な空気感を表現するためにさまざまなアプローチを試み、ついに朦朧体と呼ばれる手法を生み出した。それが右の『帰路』でもある。名前の通り、すべての輪郭が曖昧だ。当時は、画壇からさんざんに酷評された。それでも、新しい日本画の境地に挑んでいた大観らは、その手法をブラッシュアップしていった。
 ところで、この作品、なぜ、私が惹かれたかといえば、日本人が抱く、自然と人間の関係を的確にとらえているからだ。画像はかなり縮小されているのでわかりにくいと思うが、作品に描かれている左下の点のようなものは二人の人間である。野良仕事からの帰路なのか、旅の帰路なのかはわからない。わかることは、人間の存在が大自然の一部として扱われているということだ。
 日本人の自然に対する感覚は、世界のなかでもきわめて洗練されていると言われているが、それを表した一枚とも言えるだろう。人間は自然界のなかで特別な存在ではないという感覚。むしろ、自然界のなかの一部だという感覚。自然を征服した人間の偉業を称える西洋のそれとは、根本的に異なる感覚だ。
 この絵の実物を見たとき、大自然の懐に抱かれた二人の境地と自分が重なり合い、えもいわれぬ感覚を味わった。まさしく、『万葉集』が詠まれた頃の日本人の感覚が、DNAに連なって、今に続いているということだろう。

 ところで、連日、中国の反日デモの報道が繰り返されている。
 最近、伊那食品工業の塚越寛会長にお会いしたが、塚越氏はかなり前から中国への進出をしないと決めていたそうだ。「共産主義国家で、信用が構築されないから」と理由も明快だ。慧眼である。
 安い労働力と巨大なマーケットにつられ、多くの企業が中国に進出していった(なかには中国から請われて、仕方なく進出した企業もあった)。しかし、チャイナ・リスクという言葉はかなり前から使われていた。それが、ついに暴発したということだ。
 中国は、下手に出れば、ますます高圧的になる。一方、毅然とした対応をとる国には、それなりの配慮をする国でもある。しかし、日本人は、下手に出れば問題がなくなると思い込み、自民党政権時代からひたすら事なかれ主義に徹してきた。それが現在の日中関係の基本になっている。中国は、日本など脅しさえすれば、どうにでもなると思っている。
 これを機に、生産拠点を他のアジア諸国へ移転させるべきだ。同時に、有望マーケットしての中国という見方も変えるべきだ。塚越氏の話通り、中国には「信用」という概念がない。合法だろうが非合法だろうが、金を稼ぐためならなんでもする。しかも、それを恥とも思っていない。
 また、日本は自分たちの正当性を国際社会にもっともっとアピールすべきだ。黙っていても理解されると思ったら間違いだ。幸い、日本は、中国、ロシア、南北朝鮮以外の国々とは友好関係にある。国際社会を味方につける戦術が求められる。
(第368回 写真は、横山大観画『帰路』)

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