高いところで「どうだ!」をかます信長さん
岐阜市は新幹線ルートからはずれていることもあって、これまであまり縁がなかったが、今回、ある機会を活用し、岐阜市内を中心にいくつかのスポットを回った。本コラムでは、何回かにわたって岐阜を紹介したい。
なんといってもはじめに触れなければならないのは、岐阜城だろう。もともと信長が築城したものではないが、稲葉山城の戦いで斎藤龍興から奪い取り、本拠地をここに定め、この街を岐阜と改称したことに合わせて岐阜城と改め、天下布武に着手したことから「信長の城」という印象が強い。
信長は合理的なところと非合理のところが極端で、そのアンバランスさが面白い。岐阜城も、のちに築く安土城もやたら高いところに作られている。一見、防御に優れていると思える。しかし、岐阜城は水脈がなく、籠城に適していないため、自ら野戦に打って出る以外になかった。実際、岐阜城は連戦連敗で、関ヶ原の前哨戦でも落城している。安土城に至っては、正面の大手道がズドンとまっすぐの一本道。敵にとってこれ以上攻めやすい構造はない。
城の防御力などは信長にとって、どうでもよかったのだろう。それより最も重要視したことは、「高いところにある」ということ。どこからも一望でき、信長の威信を示すことができる、それが大切だったのだ(と思う)。ポルトガルから来た宣教師ルイス・フロイスの絵にも描かれているが、山の上に聳える天主閣(信長は天守閣ではなく、こう記した)はヨーロッパにも類を見ない、異様な高さだった。
そんなわけで、岐阜城へ行くにはロープウェイを使う必要がある。麓から歩いて行ける山道もあるが、暑い日は考えただけで足がすくむ。信長は天主閣の近くまで毎日馬で登ったということだが(馬場の跡地がある)、馬にとってははなはだ迷惑だったろう。
この極端な示威行動は、信長の劣等感の裏返しなのではないか、と思っている。彼は日本人離れした戦の天才であり一流の革命家でもあるが、政治家の器ではない。人間の器はあまりにも小さい。しかし、その形はいびつでじつにユニーク。日本史において、他に似たような形は見当たらない。
山麓の織田信長公居館跡を見ると、おもてなしが好きだったこともわかる。彼は政治的な能力がなかったと書いたが、プライドをかなぐり捨てて当面の敵に(もちろん、内心アカンベェをしながら)へりくだることは厭わなかった。信玄の使者をとことんもてなしているが、公居館跡には客人をもてなす場として意を尽くしていたことが伺い知れる。
麓から岐阜城を見上げる
織田信長公居館跡
織田信長公居想像図
天主閣外観
信長像。秀吉によって執り行われた信長の葬儀に使われた像のレプリカ。当時、信長を見た人が作ったものだけに信長の容姿として信憑性は高い
岐阜城から長良川一帯を望む
(220627 第1134回)
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