あらゆるものが輝いている
最近、身の回りのあらゆることが輝いている。
と書くと、いかにも宗教的だが、けっしてそういうものではない。輝いて「見える」のではなく、輝いているように「思える」のだ。自然の風景はもちろん、本や音楽などこよなく愛しているもの、家族や親しくしている人、ひとつひとつの仕事、何年も何十年も愛用している服、2匹の飼い猫(う多・そ良)、食器や酒器、芭蕉の句や禅語、書、細々とした運動、日本という国、住んでいるところの環境など、形のあるなしにかかわらず、身の回りのものごとがじつに愛おしいのだ。
なぜかと自分に問うた。歳のせい?
ではないだろう。世の中を見渡せば、歳を重ねる毎に不機嫌になっていく人が多い(特に男性は)。
もしかすると、世の中との絶妙な間合いがそうさせてくれるのかもしれない。世の中にまったく無関心なのは論外。かといって、関心を持ちすぎるのもどうかと思う。世の中には醜悪で自分の力ではどうにもならないことが山ほどある。それらと適当な間合いを取る。
そういう意味で、三猿(見ざる聞かざる言わざる)は、物事の本質を突いていると思う。なにもかも「見ざる聞かざる言わざる」ではなく、自分にとって必要なものを選び、見る・聞く・言う。
山に登ったあとは、とりわけ身の回りの諸々が輝いている。ポジティブなエネルギーをもらえるからだろうか。
毎年、8月は比較的高めの山に、9月はあまり高くない山に登っている。今年選んだのは、長野市にある飯縄山(いいづなやまと読む)。高さは1917メートル。登りは2時間20分ほど、くだりは2時間弱。ほどよい高さである。さすがに最近は3000メートル級の山に登るのはしんどい。これくらいがちょうどいい。
当日は炎暑だったが、吹き抜ける風が心地よかった。汗をたっぷり流した後のビールは格別。人生の醍醐味である。
石の鳥居
一の鳥居
中腹からの眺め
(220912 第1145回)
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