水を感じさせたいから水を抜く
枯山水について、不思議に思ったことはないだろうか。
私は何度もある。枯山水とは、龍安寺や南禅寺や銀閣寺にある、アレである。砂に引いた流線が水の流れを表すのだという。理由がふるっている。「水を感じさせたいから水を抜く」。ふつう、水を感じさせたいのであれば、そこに水をひく。しかし、あえて水を使わずに水を感じさせたいのだという。
禅問答のようでわけがわからん、と切り捨てるのは簡単だ。しかし、一考の価値はある。
人は本心からそれを欲し、しかしながらそれが満たされないとき、それを求める心が膨れあがる。反対に、足りていればそのものの価値は下がる場合が多い。つまり、意識することがないという状態。水の中などで酸素がなくなりかけたとき、ようやく人は空気のありがたみがわかる。モノや人に対してもそうだ。当たり前のように自分の周りにいる(ある)とき、人はなかなかその価値に気づかない。なにしろ、人は忘れる動物だから。しかし、身の回りからその存在が消えてなくなったとき、人は失ったものの大きさを初めて知ることになる。
枯山水はそういうことを教えたいのではないだろうか。今の状況を保つことは、当たり前ではないよ。生きていることも、毎日不自由なく食事をすることができるのも、仲のいいひとが元気なのも、社会が安定しているのも、じつは奇跡的なことの連続なのだよ、と教えたくて、あんなこみいったことをしたのかもしれない。一期一会、なにごとも大切にしなさい、と。
また、こうして、このブログの原稿を書いている瞬間も、刻一刻死へと向かって進んでいる。残り時間が少しずつ減っていくことを止める手立てはない。そういうことも枯山水は意識させてくれる。
そう思えば、コワイものはない。破れかぶれになれと言っているのではない。一瞬一瞬を慈しみながら、しみじみ味わうことがいかに大切なことか、おのずとわかる。
いつになく真面目な私であるが、ときどきそういう真面目なことを考えるクセがある。
「過ぎ去った時間はけっして取り戻すことはできない。だから、たくさん眠っている場合じゃない。よーし、これからは睡眠時間を7時間にしよう!」、そう決意したことが何度もあるが、睡眠時間に限って決意を実行できたためしはない。仮にできても、その日はエネルギーが半減し、逆効果となることが多い。やっぱり、まだまだダメだなあ。
えーと、何の話だっけ? そうか、枯山水。
いにしえの日本人の思考の懐は、じつに深い。
(120121 第312回 写真は京都・南禅寺の方丈)