一人の秀吉に二人の人物
戦国武将3傑は、なにかと比較されることが多い。「鳴かぬなら〜」もそうだし、「(餅を)信長がこね、秀吉がつき、家康が食べた」もそうだ。
いろいろな見方があるだろうが、私は天下をとったあとの秀吉にはまったく惹かれない。天下をとる前と後では、別人のようだ。これほど豹変してしまったのはなぜなのか。
天下人になる前は、機転がきき、才気煥発で柔軟性があった。しかし、天下人になってからは独善的で了見が狭く、老害そのものに成り果ててしまった。民のことより、わが身の栄誉と息子秀頼ばかりを案じ、醜態そのものだった。一度、跡継ぎにした甥の秀次一族を皆殺しにするなど恥も外聞もなかった。朝鮮出兵では、じつに多くの命を無慈悲に奪った。
そうなってしまった原因の多くは、秀吉の人間性にあると思う。無教養で品格がなかったことで劣等感を募らせ、その反動として尊大なふるまいをしたのではないか。
ふと思い出したのは、中国は楚漢戦争期の項羽と劉邦の話。庶民から人気があった劉邦は項羽に勝ち、皇帝になると、功臣たちの幾人かを叛逆者として殺した。
帝位が何者かに奪われるのではないかと恐れたからだ。それをあおるようなデマも横行した。劉邦に疑心が生ずると、諸侯も同じように疑心をもった。あとはその反復拡大の一途をたどった。妄想が妄想を生み、劉邦は地獄の責め苦にあえいだ。同じ人間でありながら、最高の地位に登りつめる前の劉邦とその後の劉邦とでは別人のようだ。
……と、話は戻るが、輝いていた頃の秀吉が出世の足がかりとした墨俣一夜城というものがある。信長による美濃攻めの際、あらかじめ切り出しておいた木材を木曽川に流し、墨俣の地で組み立て一夜で城にしたというもの。資材をプレカットしておき、現地で一気に組み立てる現代のプレハブ工法のようである。
まだ木下藤吉郎だった頃、秀吉はまともな兵を率いさせてもらえなかった。その代り、土木工事は得意な人材がたくさんいた。
与えられた条件下で、最大限の成果を上げる。そのお手本のような仕事ぶりだった。
それがあんなクソ爺に変わってしまうとは! つねに心の手綱さばきを忘れないように、という教訓でもある。
右奥に写る山の頂上に、信長の岐阜城が見える
出世橋からの眺め
西行もこの地を訪れたらしい
(221121 第1155回)
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