お手本とすべき生き方
徳川家康は征夷大将軍を秀忠に譲ったのち、駿府に移り、大御所政治を執り行った。名目上の将軍は秀忠だったが、真の最高権力者は家康が持っていた。
その当時の家康の側近がすごい! 駿府奉行衆には本多正信の子・正純や大久保長安ら、ブレーンとして天海や金地院崇伝、外交顧問にウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンを抱え、その他、茶屋四郎次郎、後藤庄三郎、角倉了以らの豪商や林羅山などの学者も侍らせていた。もちろん、強大な軍事力ももっていた。家康は、その時代を代表するさ人物コレクターの様相を呈していた。
そんな家康は、タヌキ親爺というイメージがある。関ヶ原にからむさまざまな策略がそういうイメージを定着させたのだろうが、とんでもないことである。応仁の乱以降、百数十年もの長きにわたって人を人とも思わない乱世が続いていた。それが江戸幕府開府以降、260余年にわたって戦乱のない世が続いた。これは世界史においても奇跡に近い。どうしてそうなったかといえば、家康がそういう天下国家を綿密に思い描き、それを実現するために努力をしたからだ。それを失念し、江戸時代の平和は天から自然にもたらされたものと思っているとしたら、とんでもない勘違いというもの。
その家康が大御所政治を執り行った拠点でもある駿府城には、家康の銅像があるが、左腕に鷹を乗せているのがわかる。
家康は無類の鷹狩り好きだった。野山を駆け回ることで健康維持の役にたったし、領内や領民の状況を把握するうえでも有効だった。
薬に関する該博な知識、1万冊に及ぶ良書の蒐集、そして出版と、その当時としてはきわめて長寿(75歳)をまっとうして生涯を閉じた。本人がそういう人生を思い描いたからこそ、実現したのである。
質実剛健で知性あふれる家康の人生は、手本中の手本だと私は思っている。
駿府城の堀と石垣
家康像。鷹を左腕に据えている
天守閣跡の発掘調査が進んでいる
(221128 第1156回)
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