生きる意味、再認識
生きるってなんだろう、死ぬってなんだろう?
今回ほどそのことを考えたことはない。今まで、そういう問いをしてきたつもりだった。しかし、頭で考えるのとハートで感じるのとでは天と地ほどの開きがある。そういうことをまざまざと思い知らされた。
大竹はわずか28年の生涯だった。私はすでに52年も生きている。そして、「もっと生きろ」と何物かに言われている。「やがておまえも死ぬのだが、それまでにやるべきことをやれ」と。
やるべきこととはなんだろう? 自分らしさを発揮しながら世の中の役にたつようなことをやれ、ということだと思っている。「自分らしさ」というのが重要だ。どんなにいいことをしても自分らしくなかったら、あまり意味はないのではないかと思う。
では、自分らしくとはどういうことだろう? それが、以前、なんの脈絡もなく直感的につけた「多樂」というコンセプトそのものなのかもしれない。
え? 多樂のコンセプトとはなんだ?
やだなもう。上に書いてあるじゃないか。
その上で、「この社会にとっていい人、いいもの、いい動き」を自分なりの基準に従って選び、自分なりの表現を用いて多くの人たちに伝えること。それが「これからやるべきこと」だと信じている。つまり、表現者であり、媒介でもある。あるときは霊媒師になってもいい(笑:霊感のない私には無理だと思うが)。
思えば、それを実行するために今までの仕事があったのではないかと思う。文章表現、デザイン表現、そして長年培った良質の人的ネットワーク。
少し思い起こすだけで、じつにさまざまな人たちに出会った。大半は取材を通して、その人の人生と正面からとことん向き合ったがために生まれた信頼関係をともなっている。これはとてつもない財産だと思っている。そのほとんどが感謝の人間関係になっているから、妙ちくりんな計算や打算は入り込む余地がない。
とはいうものの、ものごとは持続できなければ成就しない。持続させるためには、持続できる経済基盤がなければいけない。それをキープしていく唯一の手段も今までに培った仕事のノウハウにほかならない。
仕事というのは、じつにありがたいものだ。
(120218 第319回 写真は南アルプスの北岳頂上。高いところからはさまざまなものが見える)