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紺碧の将

命は線ではなく、円環

2012.02.26

 松尾芭蕉の『奥の細道』は次のような有名な導入部で始まる。

——月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。

(月日というのは、永遠に旅を続ける旅人のようなものであり、来ては去り、去っては来る年もまた同じように旅人である。船頭として船の上に生涯を浮かべ、馬子として馬のくつわを引いて老いを迎える者は、毎日旅をして旅を住処としているようなものである。)

 

 噛むほどに味わいの出るスルメのような文章である。どうしてこのような文章が書けるのか、不思議でならない。芭蕉の目と心と足は、いつも宇宙と一体になっていたのではないか。そう思わせる名文だ。

 ゆく川の流れは絶えずして〜という『方丈記』(鴨長明)にも同じような世界観を感じる。

 いにしえの作家たちの眼力は、射程距離が宇宙的スケールだったことがわかる。

 

 人はなぜ生まれ、なぜ、死んでいくのだろう。なぜ、永遠の命ではないのだろう。そう考えることがあるが、その答えのひとつが芭蕉や長明の文章に含まれているような気がする。われわれは、生命の誕生から死までを、始点と終点がある一本の線ととらえがちだが、じつは円環なのではないか。巡り巡っているのではないか。人間のみならず、一木一草も含め……。そう思わずにはいられない。仏教の輪廻転生とは少し違ったニュアンスなのだが、それを私の拙い表現能力で伝えるのは難しい。なんとなく、ぼや〜〜っと感じるだけなのだ。とはいっても、たしかな「ぼや〜〜」であるが。

 そこではたと気づく。『Japanist』の表紙のテーマを「円」にしたのは、偶然のことではない、と。生命は線ではなく、円だったのだ(もちろん、この「円」は、「縁」にも通じる)。

(120226 第321回 写真は、中尊寺にある松尾芭蕉像)

 

 

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