自分を見つめる、もう一人の自分
「古典をわかりやすく面白く すらすら読めるシリーズ」という本がある。田口先生の講義がきっかけで世阿弥に興味をもち、まずは入門書から読んでみようと、この本を購入した。
『風姿花伝』は、自らが率いる一座の行く末を危惧し、能の奥義を伝書という形で著したものだが、教育書としてじつに理にかなっている。
世阿弥ほど悲喜こもごも、運気が乱高下した人も珍しいだろう。絶世の美貌と早熟の才能に恵まれ、早22歳で父・観阿弥が遺した一座を率いる運命になり、足利将軍の庇護を受けて一世を風靡したものの、晩年は後ろ盾を失い、佐渡へ島流しに。どのような最期を遂げたかさえわからないほど、終幕は散々だった。
『風姿花伝』の内容は、人間の本質を知り尽くした、深い洞察によるものばかりで、教育書ばかりではなく兵法書にも哲学書にもなりえる。
例えば、こういうくだりがある。
──憤怒の姿を演じるときには、内面にやわらいだ心を忘れてはいけない。どれほど怒り狂っても、その芸が粗野にならないためである。また、幽玄なものの写実においては心のなかに強さを忘れてはいけない。とにかく、相反する心を内面に温めておくことは、ひとつところに安住し停滞しないための用意である。(現代語訳・一部抜粋)
スゴイ! のひとことである。
「目前心後」とも「離見の見」とも言った。つまり、演じている自分を冷静に見つめる自分を心のなかにもつということ。
「秘すれば花」とも言った。自分が知っているということを知られてはいけない、とも。そう考えれば、知識の押し売りがいかに価値のないものか、わかる。
それにしても、世阿弥がいうところの「花」とはいったい何か? こんなことを考えるのがまた楽しい。
国立能楽堂が近くにあることだし、来月は時間を見つけて能の鑑賞をしようと思っている。
(120524 第342回 写真は『すらすら読める風姿花伝』)