恨みを買った、その末路は
登山の翌日、山形市内にある霞城(かじょう)公園に行った。室町時代、斯波兼頼(しばかねより)が築城した山形城を中心に整備された公園だが、その公園に隣接する「最上義光(もがみよしあき)歴史記念館」が印象的だった。
最上義光といえば、「北の関ヶ原」と称された激闘を演じた武将である。戦後、その功績が認められ、出羽57万国を与えられる。
この記念館では、年配の男性のボランティアガイドの熱意ある語りに圧倒された。とにかく「最上義光ラブ💕」という感じで、話が止まらない。定年退職したあと、ボランティアガイドになったのだろう。それまでは郷土の英雄・最上義光のことはほとんど知らなかったというが、知れば知るほどすごい人物だということがわかり、今はこうして来館者に説明できることが嬉しいと語っていた。
最上義光は身長約180センチ。その当時は、とんでもない長身だったろう。
彼の娘・駒姫は「東国一の美女」との評判だった。
それを聞きつけたのが、秀吉の甥、関白秀次である。彼はまるで美術品を収集するかのように多くの美女を娶っていたが、なんと東北の地にいる駒姫にまで触手を伸ばし、嫁に欲しいと言ってきた。
天皇に継ぐ権威のある人の要求を断ることはできない。最上義光はやむなく駒姫を差し出した。それが悲劇の始まりだとも知らずに。それから間もなく、秀次は秀吉との関係が悪化し、高野山で切腹することになる。
問題はその後だ。秀吉は秀次の一族39人や5人の子をまとめて京都の三条河原で斬罪に処すると決めた。
そのとき、駒姫はまだ秀次に会ってさえいない。家康らが助命嘆願に奔走したが、それもむなしく、駒姫は出羽から京の都に来て早々に首を斬られることとなる。
その頃の秀吉は狂っていた。
娘がそんなふうに殺されて、親はどう思うだろう。
最上義光は関ヶ原の合戦の際、迷うことなく家康側についた。豊臣政権の崩壊を誰よりも願っていたのは彼だったはず。西軍の上杉軍との長谷堂城の戦いでは、わずか1000の兵で2万5千の猛攻を防いだ。
結局、秀吉はあれほど秀頼の行く末を慮ってあの世へ逝ったが、自分の残酷なふるまいによって秀頼を破滅に導いてしまった。
最上義光は終生、家康を尊敬し、自らの死期を悟るとわざわざ駿府の家康を訪ね、あらためての御礼と今生の別れを告げている。
ことほどさように恨みを買えば、のちのち高い代償を払わせられる。このこと、プーチンやトランプにも教えたいが知らせる術はないし、たとえ知らせたとしても聞く耳はないだろう。
以下、山形城跡
(240811 第1233回 右上写真は最上義光像)
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