からっぽ感覚
近年、夏の一大イベントといえば、3000メートル級の山を登ることである。
なんといっても、日常とはまったく異なる世界に身を置いて無心になれる。自分がどういう人間で、どういう立場なのか、思い知らされることがない。ただ、目の前の光景を感じるだけの生き物になる。流れる雲を眺め、肌を撫でる風を感じ、けなげに咲く高山植物に心躍らせる。この「からっぽ」感覚というのは、日常ではなかなか得られない。心のリセットにも、デトックスにもなっているのだと思う。
今年は初めて八ヶ岳に登った。八ヶ岳の最高峰・赤岳(2899メートル)。昨年登った南アルプスの北岳と比べればかなり楽だが、それでも途中には難所がいくつかある。行者小屋から続く階段、文三郎尾根分岐から続く急勾配の岩場は、気を抜くことができない。うっかり足を踏み外せば、一気に滑落してしまうような危険なところもある。
それでも、一歩一歩前へ進めば、やがて頂上にたどり着く。この「確実性」がいい。どんなにつらくても、歩き続ければ必ず目指すポイントへ行くことができるのだ。
頂上で眺める光景をなんと表現すればいいのだろう。ある達成感とともに味わうあの光景は、登った者にしかわからない。
登山のもうひとつの楽しみは、ビールである。カラカラに喉が渇き、ヘトヘトになるまで歩く。その頃、頭のなかにあるのは、冷えたビールの映像だけだ。それを飲み干すときの快感をイメージし、それだけを頼りに歩き続ける。
やがて、そのご褒美にあずかる瞬間がやってくる。
旨い! 旨すぎる!
もし、「ビールはないけど、ワインか日本酒ならありますよ」と言われたら、テーブルをひっくり返してしまうかもしれない。それくらい、ビールが旨い。
ふだん、そこまでビールを愛飲しているわけではないが、その時ばかりは100万ドルの飲み物になるのである。
今回は下山してからも愉しかった。八ヶ岳倶楽部で柳生さんに再会し、登山前に取材した植物細密画家・野村陽子さんのご自宅を訪れ、最後は伊那食品工業のかんてんパパガーデンに行った。
同行した某社長に、「カズオさんもキレイ好きになって、こういうガーデンを作れたらいいですね」と言ったものの、足の踏み場もない彼の部屋を思い出し、それがいかに無謀なことか、あらためて痛感した。トレンディドラマに出てくるようなゴージャスな部屋よりも、田端あたりの安アパートの一室の方が落ち着くという人だから、他の方法で社会貢献してもらう以外あるまい(田端の人、ごめんなさい。カズオさんが「例えば」」という前置きで使った地名なので、あまり意味はありません。ん? あるか……)。
(120809 第359回 写真は赤岳頂上の社前にて)