過保護国家・ニッポン
ロンドン・オリンピックが閉幕した。
私は、物事を多面的に見る習い性があるためか、テレビ観戦していても、競技以外のことに注意が向いてしまうことが多い。今回は、大会最終日の男子マラソンで面白い光景を見た。
その光景を見るまでは、アフリカ勢のランナーの美しさに目を奪われていた。腰の位置の高さ、腰から下のコンパスの長さとストライドの長さなど、芸術作品を見ているかのような錯覚に陥った。「これじゃ、よほどのアクシデントがない限り、勝てないよなあ」と思っていると、上空からのカメラが、旧市街の細い路地を細い線になって走る選手たちをとらえた。
沿道のビルの屋上に、マラソンを観戦している人がたくさんいる。そのとき、気づいた。手すりがないということに。それなのに、屋上の縁のところに大勢の人が腰を下ろし、足をブラブラさせながら下を見ているのだ。一瞬、ゾーッとした。建物は5階以上ある。落ちたら、まず命は助かるまい。それなのに、手すりはなく、そもそも立ち入り禁止になっていないのだ。
そのとき、バルセロナのモンジュイックの丘でロープウェーに乗ったときのことを思い出した。窓ガラスがすべてはずされていたのだ。あれでは身を乗り出した際に、誤って落ちてしまうこともあるだろう。「日本人的感覚」ではとても危険なものに感じた。
ロープウェーを降り、係の人に訊いた。窓ガラスはいつもないのか、と。
冬以外は窓ガラスをはずしているという返事だった。だって、風通しがいい方が快適だろ? と。
本来は、それが当たり前なのだろう。
日本では、なんでもかんでも、ありとあらゆることが保護され過ぎている。あらゆるリスクを先読みし、考えうる限りの対策を施す。事故があれば、すぐさま大騒ぎになり、少しでも危険なものは取り払われる。そういうプロセスを経て、公園の遊具はどんどん姿を消していった。
電車に乗れば、気が狂うほどやかましくおせっかいなアナウンスが続く。街を歩いていても、いいかげんにしてくれと大声で怒鳴りたくなるほどおせっかいな標識が氾濫している。
では、この世からすべてのリスクを排除することはできるのだろうか。
そんなことできるわけがない。であれば、些細なリスクを排除するより、リスクに対応できる能力をつけさせた方がいいのではないか?
しかし、残念ながら、日本国民は過保護に扱われることに慣れてしまったようだ。
そのことは、国家にもあてはまる。そもそも自分の国の防衛を他国に任せている。
尖閣諸島も竹島も北方4島も、些細なリスクを怖れ、きちんと相手に物言いができなかったことが発端になっている。「ここでこんなことを言うと、相手と諍いになるから、なるべく穏便に済ませよう」という発想がそれらの事態を引き起こしたのだ。野田政権が不安定だからそうなっていると、したり顔でのたまうニュース解説者もいるが、それは嘘っぱちだ。長年、安定政権だった自民党時代から日本の領土は少しずつ浸食されている。
韓国にも中国にも、毅然とした対処をすべき時期だ。たとえ、それによってさまざまな問題が発生しても、それはお互い様。相手国の方が打撃は大きいかもしれない。
もちろん、そのときに孤立しないよう、周辺国や欧米諸国に理解を求めておくことは不可欠だ。
今、日本に最も必要なことは、「国家として当たり前のことをする」ということ。
そのためにも、憲法を変えることは最優先課題だと思う。それから目を背けては、子々孫々に禍根を残すことになる。
(120818 第361回 写真はロンドンの建物イメージ)