自分の身体であって、そうじゃないような
前回のコラムの続きを。
ここ半年ほどだが、自分の身体に対する感覚に変化がある。それはタイトルにも書いたように、「自分の身体であって、そうじゃないような」感覚。
私は毎朝、1時間強、自分の部屋でエクササイズをする。とはいえ、身体を動かすことに使えるスペースはせいぜい1畳半程度。そこで40数種類のエクササイズをする。内容は主に体幹を鍛えるもので、他に全身の血流を促す運動と下半身ほか各部位の筋肉を鍛える運動、そしてストレッチを兼ねた運動である。4日ほど続けて1日は完全休養にしている。このエクササイズに加え、なるべくトータルで1時間以上歩くことにしている。おかげでいまだに身体は絶好調。悪いと思うところはひとつもない。病気で一日休むということもない。8時間熟睡し、食欲もあり(朝夕2食)、快便でもある。
あるとき、いつものように身体を動かしていたとき、ふと思った。いま動いている身体は自分のものじゃない! と。すると、自分の指示通りに動いてくれる身体がなんとも愛おしく、そしてありがたいものに思えた。
魂は自分のものだろう。それが永遠のものかどうかはわからないが、魂というものは存在する。それが自分であるともいえる。
では身体は? これはこの世での魂の「乗り物」と考える。この世に生まれ、さまざまな活動をするうえで便利な乗り物として与えられた。実際の乗り物もそうであるように、やがて寿命はくる。きちんとメンテナンスをすれば長持ちはするが、いずれ命脈が尽きることは必至。その間、感謝の念をもって乗り物を使わせてもらうというのが私の考えだ。
では、心はなになのか。これがよくわからない。心と魂は似て非なるものだが、まんざら別物でもない。おそらく心は魂と密接につながり、身体とともにこの世での命をまっとうさせる上で重要な役割を果たすものなのだろう。だから身体を磨くのと並行して、心を磨くことも怠ってはいけない。
そんなふうに考えて日々を過ごしている。
(250208 第1258回)
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