ともに学ぶは、極上の悦び
去る1月15日(火)、多樂塾を開講した。
分不相応といえば分不相応、おせっかいといえばおせっかい。
どうして、塾なの? と問われれば、「志が近い人とともに学ぶことは、極上の悦びだから」と答えるしかない。
加えて、今までの54年近い人生で培ったこと、あるいは11年間の取材・編集などで体験したこと、そして3年半、田口佳史先生に教えていただいたことを世の中にお返しする意味でも、こういう形がベストではないかと思ったのだ。紙媒体は『Japanist』で、ネットではこのブログ、リアル空間では多樂塾で、という具合に。
テーマは「本質・本源を求める」という、雲をつかむようなもの。『論語』にも「君子は本を務む。本立ちて道生ず」とあるように、本質にのっとっていれば、必ずその人なりの道が開けてくる。これは真理だろうし、現に今まで取材させていただいた人たちの大半はそういう生き方をしている。
では、なぜ、「求める」としたのか?
本来、その人特有の本質は誰にでも備わっているはずだが、残念ながら、それが発現しにくい世の中になっているため、あえて本人が求めない限り〝本を務む〟ことはできないと思うからだ。
世の中の多くは、ますます表層的、短期的、刹那的になっていて、まさに浮薄という言葉がピッタリである。だから、中途半端に本質を学ぶと、世の中がアホらしく思えて、せっかくの学びが逆効果になる可能性も否定できない。しかし、しっかり学んでいけば、その浮薄な部分にも意味があることがわかってくる。
私はけっして特別の才能に恵まれているとは思っていないが、朝起きて「今日はイヤだな」と思った日がいつだったか忘れてしまっているというのは、主に2つの理由があると思っている。ひとつは、好きなことばかりを続けてきたこと、もうひとつは、本質的な生き方に徹しようと思ってきたこと。
10人程度での開講となったが、学びの方向性がほぼ一致しているので、じつに風通しがいい。なかには大阪から来てくれる人もいて、頭が下がる思いだ。
貴重な時間を使って集う以上、成果につながらなければいけないとも思っている。受験勉強のように、点数化できるテーマではないだけに、その到達度を測ることは難しいのだが、その人なりの「軸」がはっきりすれば、必ず目に見える形に変えることができると信じている。
そんな「嬉しい成果」をあげることが目下の目標だ。
あらためて、こういう機会を提供してくれた同志・奥山秀朗氏と瀧澤信氏に感謝。
(130117 第395回 写真は、神楽ビルの多樂塾会場)