虚栄心から解放されるということ
人からよく見られたい、褒められたい、自分は優れていると思われたい……といった感情は誰にでもある。もちろん、私にもある。それらは向上心の源になるであろうし、生きる力にもなる。事実、誰だって褒められて悪い気はしない。相当な変わり者だと思われている私でさえそうだ。
そういう感情を、まとめて「虚栄心」と呼ぼう。虚栄心というと、ひどい意味に聞こえると思うが、事実、人間はそういった厄介な感情に支配されていることも事実。それがあるために、人はどれほどムダなエネルギーを費やし、マイナスの感情を味わっていることか。あるいは、本来やるべきことに力を傾注できないでいるか。
では、虚栄心は取り除く方法はあるのだろうか。正直、わからない。取り除く必要もないのかもしれない。
現実の世界において、虚栄心がなさそうな人は皆無だが、歴史上には稀にいる。今回の『Japanist』で書いた山岡鉄舟もそうだろうし、最たる人はなんといっても良寛さんだ。
良寛さんは、つい「さん」をつけてしまういくらい、特別の人だ。さりとて、「様」をつけたくなるような人ではないし、「ちゃん」でもない。いや、案外、子どもたちと鞠つきなんかをして遊んでいる光景を見ると(絵で)、良寛ちゃんと呼んでいいかもしれない。
でも、やっぱり、「良寛さん」なのだろう。恬淡にして無碍、あらゆる虚栄心から解放された希有の人だ。会ったことはないが、そんな気がする。
ところで、書家の酒井真沙氏の字は、まさに良寛さんを彷彿とさせる字だと思っていたが、先日、栃木県大田原市で開催されていた氏の個展を拝見し、さらにその思いが強くなった。
去る1月、新国立美術館で開催されていた独立書展に出品されていた「知足」を見て、足が止まった。数百点もの膨大な数があるなかで、同じようなタイプは二つとない、まさに独自の世界を示していた。
その日の夜、久しぶりに電話をした。じつに素晴らしく、感動しましたと。
酒井氏はとても喜んでくれ、もうすぐ個展があるからぜひ来てくれないか、高久さんに会いたいなあと。
酒井氏といえば、2003年、『fooga』の特集記事の取材で初めてお会いした。当時、すでに視力がほとんどない状態で、「高久さん、今日は赤いお召し物を着ていますか」などとおっしゃったくらいだから、かろうじて光を得ていたような状態だっただろう。
酒井氏の作品は、私の心に直球で入ってきた。なんて愛らしい字だろうと思った。そこで、特集のタイトルは、「愛という字」にした。以来、「多樂」「櫻」「愛」「憬美」「柳緑花紅」という5つの作品が私の手元に来ることになった。それらは今でも私の生活空間で絶妙な味わいを醸している。
あれからちょうど10年、酒井氏の作品はますます恬淡としていた。いっさいの虚栄心からも解放されていた。誰がどう思うとかまわない、心のままに書いたという潔さがあった。
聞けば、視力はまったく失われてしまったという。つまり、自分で書いた作品を見ることができないということ。それなのに、以前と変わらずとても朗らか。他の人の作品は目に入らないというか、まさに「眼中にない」からだろう。「何かを失えば、何かを得る」という言葉通りの風情を身に帯している。
「佛心」「而今」「聴雨」「案山子」……。欲しい作品がたくさんあって困っている。
(130202 第399回 写真は、自身の作品『佛心』の前に立つ酒井真沙氏と下段は『案山子』)