ジワジワ
今日は17回目の『Japanist』発刊記念日。
おおむね発送の手配を済ませ、充足感とともにページを繰っている。前回、はからずもこのブログで「痛切な反省」の弁を述べてしまったが、今回はそのときの反省をもとに修正を施した。よって、かなりブラッシュアップされたと実感している。
とはいっても、多くの読者はあまり気づかないかもしれない。でも、それでいい。「なんとなく変わったかもな」という変わり方がいちばんいいと思っているからだ。
しばしば名刺交換をして、「この名刺はなんとなくセンスがいい」と思うことがあるが、そういう名刺は決まって細かい部分にまで気を配られている。全体のデザインは言うに及ばず、余白の取り方、フォントの選択と大きさ、字間・行間のバランス、そして情報の取捨選択と的確な優先順位。たかが名刺といえど、数え上げればきりがないほど選択肢がある。約130ページの本(あえて雑誌と呼ばない)であれば、それこそ天文学的な選択肢だ。それらに対し、ひとつひとつ適宜判断をくだしていく。思えば、編集とは人の編集であり、選択肢の編集でもあるのだ。
先日、ある方から電話があり、「この前、NHKのFM放送を聴いていたら女性のシャンソン歌手が『Japanist』のことを話題にしていて、その方は日本一の雑誌だと言っていましたよ」と教えてくれた。残念ながらシャンソン歌手の名は忘れてしまったらしいが、そういうベタ褒めは大々的にではなく、さりげないところで言ってくれるのがいい。負け惜しみととられては困るが、私は『Japanist』が急に普及することを望んでいない。そういう展開の仕方は、なんらかの反動を伴うはずだ。それは自然の理に反する。良さがわかる人の間でジワジワと浸透していくことが最も望ましいと思っている。「ジワジワ」、これがいいんです。
今、世間を跋扈しているのは、手っ取り早く合理的に利を得るための方法論ばかり。それは本質的なあり方の対極にあると思う。そんな小手先の方法でなんらかの果実を得ても、満足感は少ないだろうし、また、すぐに陳腐化してしまうにちがいない。
新生『Japanist』は、表紙の文字を最小限にし、新たな企画を3つ加え、インタビュー記事のデザインフォーマットを変更し、その他、随所にメスを入れた。
しかし、まだまだ改良の余地があると思う。今後も「ジワジワと」改良していくつもりだ。
(130423 第418回)