師の懐へ還る
世の中の人間を2種類に分ける方法はいくつもあるが、こういうのもアリかも。
「答えのあるものを求める人と、答えのないものを求める人」
もちろん、私は後者だ。だからこそ、文章やデザインといった、正解のないものを生業(なりわい)にしている。
一方、学生時代から数学や物理は苦手だった。いつも赤点ギリギリだった。ひとつしかない答えを求めて膨大なエネルギーを費やす人の精神構造は、私のような人間とは基本的に異なるのだと思う。ある意味、自分にはできないからこそ、ずっとそういう人をすごいなあと思ってきた。イプシロンの発射延期の際も、「わずか、それくらいのズレなら、思い切って発射しちゃえば?」と思ったが、それではダメなのだろう。もっとも、科学の世界も答えはひとつではないらしく、アポロ計画も「スリーナイン」といって、99.9999%の成功確率を得てはじめて実施されたらしい。要するに、こちらの世界も「答えのないもの」なのかもしれない。
前置きが長くなった。
物心つく頃から、答えのない世界に興味を抱いていた。だから、文学も音楽もデザインも歴史も旅もスポーツも政治も同じレベルで見ている。
ところが、そういう物の見方を本質的・根源的なレベルで教えてくれる人はいなかった。どこかにはいたのだろうが、ずっと会えなかった。
孔子さんが言う、「五十にして天命を知る」はダテじゃないなあと思ったのは、50歳のときに私が求めていた師に巡り会うことができたからだ。その人こそ、田口佳史先生だということは本ブログでもたびたび書いてきた。
あのときの衝撃と体の内側から湧き上がってくる歓びは今でも鮮烈に覚えているが、どう表現していいかわからない。とにかく、「この人だ!」と思ったのだ。
田口先生が説かれる「ものの考え方」は世の中にある多くのハウツー物お手軽思想とは対極をなすものだった。以来、祖師ヶ谷大蔵へ通い続け、その結果、自分で言うのもナンだが、ずいぶん根っこが太くなったような気がする(それはキミ、勘違いだよ、と田口先生がおっしゃるかもしれないが)。
このところ、思うように時間がとれず、月一回の佐藤一斎講義と老子講義くらいしか出席できていないが、先日、3ヶ月ぶりに老子講義を聞き、あらためて田口先生の深い洞察力と射程の長い慧眼に恐れ入った。玄徳第五十についての解釈を聞き、自分のそれとはあまりにレベルのちがいがあり、まだまだ私はひよっこだなあと思い知らされた。
「なぜ、知者は余計なことを言わないのか」つまり、「なぜ、ペラペラ喋る人は大事なことがわかっていないのか」に対する田口先生の洞察は、世の中全体を俯瞰する視点がなかったらできないことだ。禅の不立文字にも通ずるその真意を言葉で伝えようとすると、すぐに霧消する。しかし、伝えなければいけない。その微妙な狭間にある本質を、田口先生は恬淡と掬い上げて教えてくれる。まさしく無為自然に。
もしかすると、田口先生はほんとうに老子の生まれ変わりなのではないかとあらためて思った次第である。
そんな田口先生が発信されているメルマガを受信しない手はない。
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(130921 第454回 写真上は、田口佳史氏)