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紺碧の将

「美」がわかる人ゆえに

2013.10.19

川端康成 「川端康成コレクションと東山魁夷」展が宇都宮美術館で開催されている。

 川端康成が「美の求道者」ともいえるほど美術品蒐集に執着していたことは、今年4月に読んだ『大和し美し』という本で知った。この本は、安田靫彦(日本画家)と川端の美術品をめぐる交流を描いたものだが、じつに美しくも楽しい本であった。どのページからも、川端と安田の美を求める心が伝わってきて、私は本の紙面を撫でながら読んだものだ。

 なにしろ、川端の眼力はハンパじゃない。いくら人気作家とはいえ、すでに有名になった美術品を集めることは経済的に不可能だ。川端は、世間の評価などどこ吹く風とばかり、自分の審美眼に従って買い集め、なんと、そのうちの3点が国宝に指定されてしまった。『大和し美し』によれば、原稿料がまだ入ってこないうちに高額の美術品を買い、入手しては〝自慢するために〟安田邸に作品を持参していたという。そして、例の膝を床につけて低い視線で作品を見る見立ての姿勢を何時間も保ちながら、二人とも飽かずに見ていたという。美の求道者というより、修行のイメージに近いが、本人たちはいたって天真爛漫であったのだろう。

 そんなわけで、いつか川端の美術コレクションを見たいと思っていた。

 川端は、東山魁夷とも深い交誼を結んでいた。

 私は今まで、東山魁夷に魅力を感じていなかった。平板で深みに欠けていると思っていたのだ。

 ところが、今回の展示会では一気に引き込まれることになった。特に、川端のノーベル賞受賞のお祝いに東山が贈呈した『北山初雪』。うっすらと雪を被ったスギ(と思う)が山一面に生えているというだけの単純な描写だが、深閑とした森の中で、思わず背筋が伸びるほど冷たい空気にさらされているかのような錯覚を覚える。けっして心地よい風景ではないのだが、観る者の心を浄化させる力をもっている。

 川端の書もいい。ズドーンと骨太で、剛毅だ。こんな筆の使い手は、そうそういないだろう。作為もヘチマもあったものではない。やはり、〝書は人なり〟なのだろう。

 

 さて、私は今まであまり川端の熱心な読者ではなかった。今までに読んだものといえば、『眠れる美女』くらいだが、それに収められた表題作と『片腕』という作品は、印象が鮮烈に残っている。着想も斬新でアヴァンギャルド。とんがっているのに、どこか温かい。これを機に、いろいろと読んでみたいと思っている。

 ノーベル賞受賞式の彼のスピーチは、『美しい日本の私』という本になっているが、川端の求める「美」とは何だったのだろう。禅の言葉も数多く引用されていることからもわかるように、永遠に変わらない本質を求めていたことは疑いえない。

 皮肉なもので、その鋭い審美眼や眼力に裏打ちされた刃は、己の肉体にも向けられてしまったようだ。時とともに醜くなってゆく我が身の姿に耐えられなかったのだろうか。自ら命を絶つ理由は、私のような凡人にはそうとしか思えない。

「川端康成コレクションと東山魁夷」展(宇都宮美術館)は11月4日まで開催されている。

(131019 第460回 写真はロダン作『女の手』を見る川端康成 撮影:林忠彦)

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