何が正しくて、何が悪いのか
東京都知事選と佐村河内守氏の事件(?)について書きたい。
今回、初めて都知事選の投票に行くのだが、はっきり言って決め手がない。そこで消去法で選ぶことにする。
まず宇都宮氏。この人の信条はなんだ? 国旗・国歌を強制するのは個人の思想の自由を侵害するからダメだという。正直、いまだにこういう思想の人がいること自体、驚いた。なるほど共産党や社民党が推薦するわけだ。ということで、論外。
次に細川サン。前々回も書いたが、なぜ今頃都知事選に立候補?
彼は脱原発を主張しているが、原発がある自治体ならそれを争点にするのもわかるが、電力を使い放題の東京がなぜそんなことを言えるの? と首をかしげるばかりだ。
小泉サンも同じだが、彼らの主張は「原発が止まっていてもちゃんと電力が賄われているんです」とか「自然再生エネルギーを開発すれば大丈夫なんです!」というようなものだが、今、電力がじゅうぶんに供給されているのは、化石燃料をバンバン燃やしているからということを知らないはずはないだろう。その額、年間4兆円!。これはいつまでも持続できることではない。しかも、次世代に借金のツケを残しながら膨大な二酸化炭素を吐き出している。おそらく、そういう事実を知って、あえてそれには触れないようにしているのだろう。
また、前々回も書いたが、自然再生エネルギーはどんなものであっても「自然を壊すエネルギー」だということを認識してほしい。脱原発がテーマにあがると、必ずドイツの例が引き合いに出されるが、日本とドイツは電力調達の環境が著しく異なる。ヨーロッパ大陸は送電線でつながっているのだ。ドイツはフランスやウクライナの原発でつくられた電力を安く輸入することができるし、国内の原発はやめても輸出をやめたわけではない。
電力使い放題の東京都が言うべきことは、「どうやったら電力消費量を減らせるか」ではないのか。それに踏み込まず、耳当たりのいい「脱原発」を旗印にして票を得ようとしているのが気にくわない。あれだけの事故があった後だし、原発をなくしたいと思うのは当然の心情だが、そういう人の心を手っ取り早く取り込もうという戦略がなんとも姑息である。善人を欺いて、その後、どうしようというのか。
もし、細川サンが本気で脱原発を唱えるのであれば、いろいろな業界団体からどれだけ批判されようが、電力消費量を減らすこととセットで言わなければ片手落ちというものだ。もちろん、彼は本気ではないので、絵に描いた餅だけを担保に持論を唱えている。
いちおう、断っておくが、私は原発推進派ではない。反原発を唱えながら電気使い放題の無責任さにひとこと言いたいのだ。反原発=良識派という図式もアヤシイものだ。
さて、残るは二人。
うーん、どちらも決め手がない。もう少し悩んでから投票所へ足を運ぼうと思う。
佐村河内守氏の作品がゴーストライターによるものだということが判明してから世間が騒いでいる。
正直、私はこの報道が出てから、不思議でならないことがある。真相はまだわからないとして、いったいあのゴーストライター氏はなにゆえ今頃あんなことを暴露しているのか。高橋選手のためを思って、みたいなことを言っているが、もし、それが本当なら、このタイミングで暴露するのは筋違いというものだ。高橋選手は明らかに動揺しただろう。
私は、佐村河内氏に対する妬みと印税の分配についてもめたことで暴露に及んだとにらんでいる。なぜなら、最初から合意の上で合作しているのだから、今さら暴露する方がおかしい。おそらく、インスピレーションを佐村河内氏が、譜面にまとめる作業をゴーストライター氏が担当したと思われるが、なぜ、ずっとそれを貫徹しなかったのか。結局は私憤にかられた暴挙なのだと思う。
手のひらを返したような批判が渦巻く中、作曲家の池辺晋一郎氏はじつに素晴らしいコメントを寄せていた。
「合作というスタイル自体は珍しいことではない。要は、佐村河内氏がどこまで担当したか、だ。それに、真実がどうであれ、すでに作られた楽曲に罪はない」
私は『Hiroshima』も『シャコンヌ』もCDを買って聴いているし、コンサートにも行きたいと思っていた。二人がどういう関係で作ったにせよ、作られた楽曲の価値が下がることはいささかもない。もしかしたら、今、多くの人に親しまれているベートーヴェンやモーツァルトの曲だって、ほんとうはゴーストライターが書いたかもしれない(あくまでも、〝仮定〟の話)。でも、もしそうであっても、その曲の価値はまったく変わらないというのと同じだ。
マスコミはいつものように、まるで鬼の首をとったような報道ぶりだが、では訊きたい。「あなたは、一点の非の打ち所もないような生き方をしているのか」と。
せめて、佐村河内氏の弁明くらい聞かなきゃ……。
(140208 第485回 写真は新宿御苑千駄ヶ谷門前につくられたネコ型の雪だるま)