道草のような学びが好きだ
前回、鳥海山に登ったことを書いたが、登山に限らず仕事での出張など、目的を果たした前後に「ついでに」何かを見てくるのが好きだ。道草が多い人生か、少ない人生かは人によって大きく変わるところだが、私は明らかに前者だろう。
ツアーなど最初から決まり切った旅では道草のしようがない。だから、私はツアーに参加することはほとんどない。みんなと同じ行動をとるのがおそろしく苦手ということもあるのだが……。
それと同じように、道草のような学びが好きだ。先週の多樂塾(不肖・私が主宰)でも、「ある決まり切った学びの仕方ではなく、興味の赴くままに学ぶ、いわゆるニューロン的、亀の甲羅的な学びの方が人間の幅を広げてくれるし、その後の人生の役に立つことが多い」と言った。
受験勉強は前者の代表だ。ある決まった枠の中で知識の習得を第一とする。途中、興味を覚えても、それは封殺する。なぜなら、よけいなことに時間を費やしてはいい点数をとれないからだ。いい点数かどうかは、誰かが決めた基準による。受験者の事情には合わせてくれない。いきおい、つまらない学びになる。それはそうだろう。自分の興味とは異なることを無理矢理学んでいるのだから。だから、すぐに忘れしまう。もちろん、その「枠」と自分の興味が一致するケースも稀にあると思うが……。
私の場合は、典型的な「道草のような学び」だ。ある本を読んでいて、途中、気になるものが出てくれば、次はそれについて書かれた本を読む。その繰り返し。だから、歴史〜美術〜食〜思想・宗教〜小説〜紀行〜伝記……と読み継ぎ、実際に訪れたり、人に会って聞くということがある。脈絡はまったくない。なんだっていいのだ。それが功を奏した?のか、フォーレの調べにうっとりした後、スプリングスティーンの雄叫びに血が騒ぐというメチャクチャな音楽的嗜好に至った。
前置きが長くなってしまった。今回の鳥海山登山の前に、山形県酒田市にある山居倉庫を訪れた。JRのポスターに惹かれ、ポスターに表記されていた地図を見たら酒田市とあったので、寄ってみたのだ。右上写真のように、米穀倉庫とケヤキの大木が整然と並んでいる。あの『おしん』のロケ地にもなったそうだ。私は『おしん』を見たことがないが、今の山居倉庫とおしんのイメージはあまり重ならない気がする。貧しい印象がないからだ。もっとも、それは現代の化粧を施しているからだろう。中庭のテラス席など、そのまま東京のど真ん中にもってきたらさぞや素敵だろうと思わせる。
登頂の後はあがりこ大王に会った。中島台・獅子ヶ鼻湿原にあるブナの巨木である。樹齢300年、幹周り8メートル弱、日本最大のブナだそうで、ネーミングが面白い。その木が鎮座するところまで片道40分の木道が敷かれているのだが、森の匂いや木々が発生させる微風がじつに心地よかった。
興味を覚えたら行ってみる。それも私の学びであり、遊びである。やがて、学びと遊びは限りなく一致することになる。
(140921 第523回 写真上は山居倉庫、下はあがりこ大王)