街路樹が泣いている
いわゆる二重生活である。
大半は東京で暮らし、週に一回ほど宇都宮で過ごす。会社があるし、自分でプロデュースした愛着のある自宅もあるからだ。それぞれの土地に特長があり、どっちが良い・悪いということは言いたくないが、こと街路樹に関して、宇都宮に行くたび愕然とする。
右の写真を見てほしい。これは住まいの近くの外環状線、通称・宮環沿いのトチノキだが、毎年秋になると枝をばっさり伐られ、このありさまである。
こういうことをする人の神経がわからない。考えられる理由としては、以下のようなことか。
■落ち葉が汚いから葉っぱが落ちる前になんとかしろ、と住民から市役所にクレームがくる
■枝を伐採する業者が既得権益化し、慣例にしたがって仕事を発注している
■税金は無駄に使うのが当たり前だと思っている
■何も考えていない
ま、おそらく全部があてはまるのだろう。
迷惑なのは人間の都合でこんな窮屈な場所に植えられた植物たちである。そのままに近い姿で道行く人たちの目を楽しませることができれば、それはそれで本望と思うかもしれないが、葉が落ちる前に伐られる植物たちはどう思っているのだろう。
落葉樹は春になって葉をつける瞬間、若葉からだんだん緑が濃くなっていく過程、そして秋になって色づき、葉がパラパラと落ちるときなど、いろいろな光景を楽しませてくれる。落ち葉を汚いと思うのは、その人の心が汚いからだ。
もっとも、こういう愚行は宇都宮だけに限らない。今年の6月頃、掃除の取材で広島を訪れたときも、公園の木が枝を伐られ過ぎて何本も枯れていた。人間の都合で植えた木々を粗末に扱うのはどの地方でも繰り広げられていることなのだろう。
ひるがえって、東京の街路樹はおしなべてよく扱ってもらっている。フランスの街路樹と比較すれば哀れであることに変わりはないが、そこそこ見られる状態に管理されている。
右の写真は千駄ヶ谷駅周辺の街路樹だが、これなら仕方がないと思う。イチョウの葉っぱがどう色づき、落ちていくのか楽しみだ。ギンナンだってあちこちで匂いを振りまき、秋の深まりを感じさせてくれる。
たまたま住んでいるエリアがそういう場所なのかもしれない。しかし、概してコンクリートジャングルと言われている東京に緑が多く、自然がふんだんにある地方で植物が粗末に扱われているということは事実だ。人間とはそういう生き物なのだろう。
いろいろな都市へ行ったとき、その土地の人が街路樹に対してどういう態度でいるか、それも文化度を計る重要なファクターになると思う。「都市」というものは、自然を犠牲にしなければできなかった人間の業の縮図でもある。少しでもそういう気持ちがあれば、どういう対応をすべきかは答えが決まってくるはずだ。
(141116 第531回 写真上は宇都宮市の外環状線沿いのトチノキ、下は千駄ヶ谷駅近くのイチョウ並木)