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紺碧の将

出入りの法則

2015.03.29

水を飲むネコ 花粉症になったのはいつのことだろう。15年くらい前か。当時は、その季節だけ海外で過ごしたいと思っていた。実現できるほど暇ではなかったのでそうしなかったが、つまり、現実逃避を企んでいたわけだ。なんと愚か者だったことか。

 その後、病院でもらった薬を服用するようになった。あげく、医師の「アドバイス」を信じてごていねいに注射まで打ってもらった。おそらくステロイドが入っていただろう。たしかに薬を飲むと症状は和らいだが、だるくなったり眠くなったりと、副作用もあった。なんと愚か者だったことか。
 3年前、ふと気づいた。そもそも考え方がまちがっている。薬は根本的に治してくれるわけではないし、むしろ、飲むほどに体を蝕んでしまう。であれば、薬を飲むのをやめよう。そう考えたのが出発点だった。
 3月になり、花粉症の症状がひどくなっても薬を飲まず、我慢した。
 ところが!である。10日も過ぎると、症状がスーッと和らいできたのだ。
「やっぱりそうだったのか」と得心した。自分の体が、自分の力で花粉症に対応し始めたのだ。
 それでも、まだ愚か者にはちがいなかった。なぜなら、走る回数をかなり減らすなど、花粉を吸い込まないようにしていたからだ。世間の「常識」からすれば、それは至極当然のことだ。つまり、常識に従った「愚か者」であったわけだ。
 今年も3月になって症状がでたが、今年はさらにちがう対処の仕方を選んだ。
 それは、薬を飲まないのはもちろんのこと、生活を変えないということ。むしろ、走る回数を増やした。2日に1回、御苑内を走り、週に一度、国立競技場駅の階段を3200段昇降する。ランニングの2回に1回はタイムトライアルをし、思いっきり空気を吸って思いっきり吐くということをした。
 すると、どうだろう。走った日の方が花粉症の症状がなくなることに気づいたのだ。吸い込んだ花粉の量は、走らない日と比べたら数万倍、いやそれ以上だろう。なのに、症状が出ない。なぜ? と思った。
 そこで、推論。吸っても、吐き出せばいいのだ。
 そうか、簡単なことだったのか、と得心した。体はつねに、「正常な状態に戻そう」という試みをしている。それを薬などで抑えたら、その機能が失われていくのは明白。
外堀通り風景 花粉に反応しないのは、免疫機能が相当弱っている証拠だと聞いたことがある。白血病の人は花粉症にならないのだそうだ。しかも、この時期、日本列島に舞う花粉の量は、明らかに自然の状態に反している。それに反応するのは当然のことだと。
 要は、大量の花粉をどうとらえるかだろう。外敵とみなして薬や注射で防ごうとするのか、あるいは自分の体を信用し、その力を高めようとするのか。
 先ほど、「吸ったら、吐く」と書いたが、本来は、「吐いたら、吸う」なのだと思う。吐くから、吸いたくなる。だから、「呼吸」と書く。
 なんでもそうだ。まず、出すということ。「出納」というように、お金もうまく出せば、いい状態で入ってくる。「ギヴ・アンド・テイク」というように、人間関係も、まず他者に与えれば、自分に返ってくる。つまり、出入りの法則だ。この原理・原則を間違うと、必ず行きづまる。
 学ぼうとすれば、花粉症からも多くを学べるということに気づいた。

 さて、上の写真はなんでしょう。これは、新宿御苑の池の水を飲む猫。はじめは、正体不明の植物? と思った。なんと優雅な姿だろう。
 下は、市谷田町に新設した事務所「Chinoma」から見る外堀通りの風景。手前は街路樹(フウノキ?)、お濠の手前に桜。お濠の向こうを中央線が走って、さらに堤を上がったところに遊歩道があって、桜が並んでいる。花が咲き、緑の葉が繁ると、一気に光景が変わる。大好きな「絵」である。
 過日、多樂塾の面々と花見の宴を開いたが、開花予測を誤り、まだ三分咲きほど。とはいえ、気のおけない仲間と昼間から酒を飲むのは、じつに楽しいものだった。
(150329 第550回)

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