「坐禅のようなもの」を日常に
私は正座ができない。子供の頃、まだ骨がしっかりできていない頃にスポーツや野外での遊びが過ぎたことで、左脚膝関節の下の骨が隆起してしまったのだ。
すでに痛みはないが、骨が隆起したままなので、硬い床に正座するとそれが当たって痛い。以来、正座を免れてきたことによって長い脚が保たれてきたのは不幸中の幸いだった。というのは悪い冗談だが、正座ができないというのは本当だ。
2年前くらいから禅の世界に興味をもっている。あの独特の感覚を体感するには、どうすればいいのだろうかと考えたが、坐禅を組むことはできない。また、坐禅はあまり自分には向かないだろうとも思った。だって、どう見ても坐禅を組むという「ガラ」ではない。
そこで得た結論は、禅語を覚えるということだった。言葉をなりわいとしているからか、禅語には心の随までドシーンとくるものが多い。あるいは、少しずつ沁み込んできたり、刃物のように切り込んできたり……。研ぎ澄まされた言葉を覚えることは、私にとって格好の坐禅になるのではないかと思ったのだ。
以来、2年強。ほぼ毎日、禅語を紙に書いては意味を深めている。
現在、記憶している禅語は400語。中にはほんの少しだが、儒学系の一節や老子や荘子の言葉もある。あるいは、いま、日常のなかで当たり前に使われている言葉、例えば、心配・道具・測量・用心・投機などがある一方、「大哉心乎 天之高不可極也 而心乎出天之上」というような長いものもある。あるいは、「一」や「無」など、ひとことの禅語もある。そういう、いろいろな禅語をかたっぱしから覚えようと始めたのだ。
禅は言葉で理解するものではないと言われる。「不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏」は禅の本質を突いた言葉だが、要するに言葉では伝わりませんよ、ということだ。しかし、そうは言っていながら、禅僧たちは無数の禅語を残した。これは矛盾ではないか。鈴木大拙も「不立文字を理解するには、多くの言葉が必要だ」と語っている。だから、あまり気にせずに、私なりの方法で禅にアプローチをしようと思って始めたわけである。
効果は大きいと実感している。なにがどう変わったのかわからないが、心もちが明らかに変わった。以前から枝葉末節の事柄にはあまり興味がなかったが、よりそういう傾向が強くなり、物事の本質に目が向くようになったのだ。
これは重要なことだ。世の中の雑多な情報に惑わされず、自分の道を進むことができる。かといって、それは「自分勝手になる」とか「人のことはどうでもいい」という意味ではない。むしろ、まったく逆である。自分の一挙手一投足を大切にするということは自分を大切にするということ。だからこそ、他人も大切にできる。そう思っている。だって、自分を疎かにしている人が、周りの人たちを大切にしているだろうか。
当面、400語から増やす予定はない。まずひたすら意味を深めていく。理解が皮膚から骨へ、骨から髄へと移ったのを見届けて、また渉猟が始まるかもしれないが。
(150922 第581回 写真は円覚寺で見た若い僧の坐禅)