静かな、とても静かな世界
今年の春、じわーっと印象に残った展覧会があった。宇都宮美術館で開催された「薄久保友司展」。洋画家である。そのときに抱いた印象は、白いシャツに沁みついた青いインクのように、ずっと私の脳裡の片隅にあった。
静かな、静かな世界だった。声を大にして主張するようなタイプの絵ではない。じわじわと、沁み入ってくる。見ているときよりも、むしろ見終えてから、心のなかで感動が少しずつ増殖していく、そんな絵だ。いずれ『Japanist』でご紹介したいと思っていたが、今回念願が叶った。
薄久保氏の絵の前で、わけもわからず泣いてしまう人がいるという。
彼はその人に訊く。
「そんなに私の絵は哀しいのでしょうか」
その人はこう答える。
「いいえ。心がさわいで、しみじみとして、何かに抱かれ、やさしく回帰するような思いに駆られるのです」
これこそが芸術の力というものだろう。芸術は空腹を満たしてくれるものでも、財をもたらしてくれるものでもなく、ただひたすら心を満たしてくれるもの。だからこそ、有史以来、選ばれた人たちは芸術に身を捧げてきたのだ。
絵とは不思議なものだ。ただ、その物を写すだけなら写真でじゅうぶんだが、それでは感懐を呼び起こすには至らない。
画家というフィルターを通して描き出された作品によって、心を突き動かされる。それは人間にとって、きわめて価値のあるものにちがいない。そうでなければ、芸術はとうの昔に滅んでいるはずだから。
薄久保氏はこうも言う。
「文章をきちんと書けない人の文章が読者の心に届かないのと同じで、デッサンが疎かな絵は見る者の心に届きません」
ひとえに、絵画としての射程の長さは造形の完成度によるものだろう。長い射程があって、はじめて見る者の奥深くに殻をまとって眠っている「ありのままの自分」に届く。見る者の心を揺り動かし、涙を誘うのは、しっかりした造形があってこそ可能なのだ。そんなわけで、記事のタイトルは、「心の内奥に訴える、造形の力」とした。
右掲の『涙壺のある静物』をじっくり見てみよう。涙壺(尖った容器)とチューリップの花を生けた花器を載せた木のテーブル、背もたれが狭く高い木の椅子、青いガラス容器、フランスパンが入ったバスケット、何種類もの生花が入った花器、ポンプ、ビーズを入れた容器、丸い皿が並んでいるが、どれひとつとして調和を乱していない。微妙な空間を保ちながら、互いを生かし合っている。
つまり、この状態は、自然そのものではないか。自然は過剰も不足もない。一時、過不足があっても、やがて絶妙にアジャストされる。だからこそ、心を開いてじっと見つめていると、自然に抱かれているような感懐を覚え、涙がこぼれるのだろう。
「意識をして描くということです。時には夢の中に完成作が現れることがありますが、それはふだん意識をしているから。意識することの先に、完成作があるのではないでしょうか」と薄久保氏は語る。
ところで、薄久保氏は取材中でもその後の電話でも、私を呼ぶときは「高久様」である。じつに静かな声色で「様」をつける。なんと紳士的なのだろう。ていねいに仕事をしている片鱗がそのことからも窺える。
次号『Japanist』の「美術散歩」(16ページ)と表紙、お楽しみに。
(150930 第583回 写真上は『惜夏(芙蓉花)』下は『涙壺のある静物』)