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紺碧の将

その空虚なる中心

2016.02.18

遷宮の跡地 大阪の帰り、伊勢神宮の外宮へ行った。友人が外宮入り口前にある大正時代の洋館を借り、文化の発信拠点にするというので下見も兼ねて訪れたのである。

 

 伊勢神宮とはなんだろう。それがわかれば、日本の本質がわかるのかもしれない。
 伊勢神宮と聞いて、いつも連想するのは「空虚」という言葉だ。空虚とはどちらも「むなしい」と読むので現代ではあまりいい意味ととらえられていないが、じつはこれほど広がりのある概念はないのではないかと思っている。空虚な空間のもうひとつの好例が、皇居だ。
 ロラン・バルトは『表徴の帝国』のなかで皇居についてこう書いている。
──わたしの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な逆説、「いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である」を示してくれる。禁域であって、しかも同時にどうでもいい場所、緑に蔽われ、お濠によって防御されていて、文字どおり誰からも見られることのない皇帝の住む御所、そのまわりをこの都市全体がめぐっている。
 ヨーロッパから来た哲学者の目には、国民の崇敬を集めながら、それが単なる深い森でしかなく、しかも、そこにはだれも入ることができない皇居の存在が極めて奇妙に映ったことだろう。
神宮の森 ここで想起すべきは、「もし、東京に皇居がなかったら」だ。バブルの全盛期でさえ、皇居は名刺サイズほどの土地も侵食されなかった。どれほど強欲な人でも、この土地を使って金儲けをしようとは一片も考えなかったにちがいない。そういう中心をもつ都市は、東京以外にないだろう。
 同じように、伊勢神宮も空虚だ。そこへ行っても、特に見るべきものはない。森があって、社があるだけだ。しかし、そこに身を置けばわかるが、一見なにもなさそうだが、じつはすべてがある。この世のなりたちのエッセンスが凝縮されていると言い換えてもいい。
「なにもないが、なんでもある」を的確な言葉にすることはできない。ただ、感じるのみ。説明した瞬間に陳腐化するという点では、禅の本質を表す「不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏」と同じだろう。
 言葉に頼らないだけに、〝感じる〟ためには、鋭い感性を問われる。この国はとんでもないものを内包している。
(160218 第616回 写真上は伊勢神宮外宮式年遷宮跡地〈旧殿地〉、下は外宮の森)

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