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紺碧の将

運命の糸と天の計らい

2016.05.14

私学校 2つの幼稚園を取材するため、鹿児島へ行って来た。

 戻って来る日、鹿児島市内の城山近辺と加治屋町を歩き、あらためてさまざまなことを考えさせられた。
 幼稚園を訪ねた後だったということもあるのだろうが、「幼い頃の西郷と大久保はどんな顔をして、どんなことに夢中になり、どんな遊びをしたんだろう」という思いが去来したのだ。どんなに厳しい躾があったとしても、子供らしい無邪気さはあったはずだ。彼らは、ここ加治屋町でどんなことをしていたのだろうと、想像は果てしなく続いた。
 幕末から明治にかけて、最も重要な役割を果たした西郷と大久保の他、日清・日露戦争を勝利に導いた「陸の大山・海の東郷」こと大山巌、東郷平八郎、「海軍の父」であり総理大臣を務めた山本権兵衛など、わずかなエリアにきら星の如く偉大な人物を輩出した加治屋町。「なぜ、ここが?」。半年ぶりに訪れたが、その思いは強くなるばかりだ。
 もし、天というものがあるとすれば、あの当時、西郷と大久保になんらかの使命を託したことは明白だ。彼ら二人がいなかったら、あの動乱期を乗り越えることはかなり難しかったと私は思っている。あの二人の役割は、他の誰をもってしてもできなかったと思うからだ。
弾痕 詳細は省くが、さまざまな変遷の後、西郷と大久保は袂を分かち、明治10年と11年に死ぬまで重要な役割を果たした。
 長く続いた江戸の幕藩体制を根底から変えるためには、大きな痛みを伴う。まさに産みの苦しみだ。大久保は新国家創生のプランを断行することによって士族や農民たちの反感を一身に集め、西郷は士族の不満を一身に集め、自分もろとも墓に葬った。朋友を失った大久保は、暗殺されると知りながら身辺の警護もつけず、西郷のもとへ発っていった。
 初代内務卿として権力を一手に握った大久保だが、死後、遺族に残されたのはわずか140円の貯金と8000円もの膨大な借金だったという。国家の予算が足りず、断念せざるをえなかった事業に対し、大久保は富裕な知人から個人的に借金をしてまでつぎ込んだからだ。そうまでしてでも、新国家の礎を築こうとしたのだ。それに対して、東京都知事の体たらくはいったいなんなのだとため息がもれる。
 「その国の民主主義は、国民のレベル以上にはならない」という言葉に照らし合わせれば、もとをただせばわれわれ国民に問題があるのは明白だ。マスゾエばかりを責めても仕方がない。
(160514 第636回 写真は私学校跡地、下は西南戦争時の弾痕) 

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