嫉妬ほど恐ろしいものはない
小学生以来、世界文学に親しんできたつもりだが、思わぬ空白があったものだ。
シェイクスピア。これほど著名な作家の作品をきちんと読んだことがなかったとは、われながら痛恨の極み。
読むきっかけになったのは『Japanist』でもおなじみの近藤隆雄氏と話していたときのこと。彼は国際的なビジネスマンだが、なんと小学生の頃は将来詩人になりたかったというくらい文学にも通暁している。ワーズワースやシェイクスピアの『マクベス』の一説を朗々と暗誦するのを間近で聞きながら、「そうだ、シェイクスピアを読もう」と思いたった。
自宅の書庫に、未読のものがあった。全集ものの第1巻と第2巻で、これまで手をつけていなかったのである。2冊に収められているのは、ハムレット/オセロ/アントニーとクレオパトラ/リチャード三世/真夏の夜の夢/ロミオとジュリエット/ヴェニスの商人/ヘンリー四世/マクベス/リア王と、主要作品ばかり。
本に挟み込まれている解説の紙片に、ドナルド・キーン氏がこう書いている。
「シェイクスピアの戯曲が英文学の最高峰であることは言うまでもない。あまりにもわかりきったことなので、ときどき、抵抗を感じる批評家が粗を捜すのだが、たとえT・S・エリオットのような偉大な詩人がシェイクスピアの欠点をいくら指摘してもまったく効果がなく、評価は揺るがない」
「英、米人の10人に英文学の最高傑作を尋ねたら、10人までシェイクスピアと答えるだろう」
ドナルド・キーンをしてそこまで言わしめるのである。こうなったら、読まない手はない。
ということで、さっそく「ハムレット」と「オセロ」を読了。
後者に震撼した。私が最も愛する作家の一人、バルザックにも通ずる。卓越した人間観察に、震えた。真夏にもかかわらず……。
「オセロ」はいくつもの映画や劇になっているので、あらすじを知っている人も多いだろう。
ヴェニスの軍人でムーア人であるオセロが主人公。美しいデズデモーナと愛し合い、デズデモーナの父ブラバンショーの反対を押し切って結婚する。しかし、幸福は長く続かない。オセロを嫌っている旗手イアーゴーは、優秀な副官キャシオーがデズデモーナと密通していると、オセロに讒言する。ひとかけらもやましさをもたない誠実な妻に対し、オセロは疑いの心を持ち始める。
「むしろ、ひきがえるにでもなって、地下の穴蔵の湿気でも吸っていたほうがまだましだ」
「邪推にはもともと毒がひそんでいる」
台詞のひとつひとつが、彼の懊悩の激しさを物語る。嫉妬の炎が心の中で燃えに燃えまくっている。
妻が不義であることの実証を求めるオセロに対し、イアーゴーは、オセロがデズデモーナに送ったハンカチを盗み、キャシオーの部屋に置く。これでオセロは嫉妬に燃え狂い、錯乱状態になる。
イアーゴーの奸計にまんまと嵌められたオセロはイアーゴーにキャシオーを殺すように命じ、自らはデズデモーナを殺してしまう。
しかし、イアーゴーの妻のエミリアは、ハンカチを盗んだのは夫であることを告白し、イアーゴーはエミリアを刺し殺して逃げる。イアーゴーは捕らえられるが、オセロはデズデモーナに口づけをしながら自殺するところで幕が下りる。
全編に漂う悪行の臭いはすさまじい。妬み、過度の金銭欲や名誉欲、諫言と人間は悪い生き物だという見本帳のようだ。しかも、最後はほとんどが死に至り、大団円を閉じる。
若い頃に読んだ19世紀フランス文学によって人間の悪しき面に慣れていると思っていた私だが、シェイクスピアはそれにダメ押しをしてくれる。
ただ、ひとつ腑に落ちないのは、冷静沈着とされているオセロが、あまりにも人を見抜く目がないこと。イアーゴーほどの悪党であれば、表情や言葉の端端にその片鱗が現れているはず。しかし、最後までそれを見抜けず、面と向かって「おまえは忠臣だ」と誉めあげる始末。軍人だからこそ、人物を見抜く目は確かなものであるはずだ。
オセロは北アフリカ出身のムーア人(黒人)として描かれているが、デズデモーナの父が放つ人種差別発言は、今の世ならどうなのだろう。
いずれにしても、新たな世界に足を踏み入れた感がある。
(160801 第654回 写真上はWikipediaに掲載のシェークスピア像、下は現在読んでいる本の表紙)