フランス語と読書
いつものように、大晦日は明治神宮へ詣で、一年の諸々に対して感謝の念を捧げてきた。神社は願掛けに行くところではなく、感謝をするために行くところと思っている。
その日からいっさい仕事をせず、ひたすら本を読んでいる。今回選んだのは『植物の神秘生活』(ピーター・トプキンス+クリストファー・バード共著)という600ページ弱の大著と『昭和天皇』(福田一也著)の全8巻あるうちの第2部。ずしりと手応えのある読書タイムだ。
年頭にあたり、心に描いたことがある。ひとつはフランス語を囓ろうと思ったこと、もうひとつは読書の数を増やそうと思ったこと。
近著『扉を開けろ』を書きながら、あらためてフランス料理の奥深さを再認識した。
あらためて考えるまでもなく、私の最も好きな文学のジャンルはフランスものだ。先月読んだ、ピエール・ラクロの『危険な関係』にも唸らされた。かなりの大作だが、数人の書簡のやりとりだけで構成されている。はじめは他人の手紙を覗き見るようで居心地が悪かった。「こんなものを読むことに意味があるのか」と思いながら我慢していたが、そのうち引き込まれて、読み終えても作品の残像がずっと脳裏に貼り付いて離れない。読んでいる時は面白いが、一日も経つと忘れてしまう小説が多いなか、まさしく本物の小説である。この時も思った。「いったい、フランス人って、何者?」。
パリのあまりに美しい景観を思い出し、ジダンがいた頃の〝シャンパンサッカー〟の美しい試合運びを思い出し、はたまた印象派以降の画家たちを思い出し、「いったい、フランス人ってやつは、どんな人間なのだ?」という疑問が沸々と湧いてきた。最近、ナターシャ・サン=ピエールにハマっていることもフランス語に興味をもった原因かもしれない。ならば、その背景にある言葉を少しは囓ってみようと思ったのだ。
若い頃、少しだけスペイン語を囓っていたので、単語を見てもあまり違和感がなかった。しかし、表記されてはいるが発音しないことが多いことに気づく。しかも、リエゾンというのか前の単語の影響を受けて発音がコロコロと変わる。男性名詞、女性名詞かで所有形容詞や疑問形容詞が変わるのもやっかいだ。
中途半端な勉強ではマスターするのは不可能だろう。若い頃、好きなヘミングウェイの原書をすらすら読めるようにと、何度も英語をものにしようと思いながらついに叶わなかったことを思えば、フランス語を覚えるなど論外である。しかし、フランス語の全体像がつかめればいいと思っている。そういう目的に、NHKの語学講座は最適だ。
もうひとつ、読書の方である。もともと読書は大好きだ。幅広く、いろいろなものを読んでいると自認している。しかし、一般の人たちと比べてもなんにもならない。私は執筆をなりわいとしているのだから。
師・田口佳史先生は一ヶ月に50冊を3回ずつ読むとおっしゃっていた。新聞の記事によれば、作家の恩田陸さんは年間300冊だそうだ。私の場合、会社経営や『Japanist』の編集などいろいろな役目があるという立場上、同じ冊数を読むのは不可能だと思うが、せめてその半分くらいは読みたい。
欲しい物がほとんどなくなってしまった今、買い物の楽しみといえば、大きな書店でカゴをぶら下げて本をまとめ買いすることくらい。その回数を増やすには、本を読むスピードを上げるしかない。
ところで、冒頭に戻って明治神宮の話。あの深い森には、途方もない種類の固有種がいる。つまり、あの森だけ周囲から隔絶されているのだ。
それを作ったのは、もちろん自然の力だが、きっかけは人間の意思だ。大正時代の人たちの知恵と労力と浄財によって、今の明治神宮の礎が築かれた。それを思う時、いかな人間という生き物を信用していない私でさえ、自然にこうべを垂れてしまう。
ありがとう、あなたたちのおかげで、今私たちはこの森の恵みを享受しています。
(170103 第690回 写真上は明治神宮の社殿、下は明治神宮の森)