ルーシー・リィーの境地
とんでもないものを見てしまった。ホントに見てはいけないものを見てしまったという気持ちだ。
21_21 DESIGN SIGHTで開催されているルーシー・リィーの作品展。
これほど完成された世界を見てしまうと、あとが困る。直後に見たサントリー美術館での精妙な薩摩切子でさえ、なーんにも心に響かなかった。作為的過ぎて共感できなかった。ただの工芸品にしか見えなかった。これは恐ろしいことである。罪な人です、ルーシー・リィーさんは。
ルーシー・リィーの存在を知ったのは最近だ。雑誌『和樂』に掲載されているのを見て、写真だけでかなり心を動かされた。実物を見てしまうと、なにかが変わるかもしれないという予感があった。しかし、仕事が忙しく、なかなか見に行けなかった。
そうこうするうち、NHKの「日曜美術館」で放映された。三宅一生が出演し、自身とルーシー・リィーの交流、作品の素晴らしさなどを語っていた。それを見た時、これは忙しいなどとウダウダ言わず、早いところ見に行かねばなるまいと肝に銘じた。
で、前述のような事態になってしまったというわけ。
高貴で上品で、それでいてほのぼのとした人間ルーシーの陶芸は、まさに「孤高」という言葉がふさわしい。ナチスに怯えていた頃の作品は、たしかに「怯え」が表れていたし、自由を得てからの作品はたしかに「自由」を表していた。侘びのようでいて愉しさがあって、李朝のようであり和のようであり、やっぱりヨーロッパの芯のようなものがあって……。ルーシーの陶芸はずっと見ていても飽きない不思議な魔力を湛えていた。言葉にしようとすると、とても大事なものがスルッと抜け落ちてしまうような気がした。
そして、特筆すべきは会場設営の抜群のセンスだ。展示空間に水をはり、ギリギリの高さに台を置いて、そこに一点一点ルーシーの作品を散りばめている。水をはった展示空間の中央エリアにある作品の詳細は見えなかったが、全体の配置でまたひとつの作品に仕上げるといった離れ業をやってのけていた。シュルシュルと音をたてながら大きなガラスの壁面を流れ落ちる水も効果的であった。そこを通り抜けた光が展示空間の水に反射して天井にゆらめく光の輪舞をつくっていた。
なにからなにまで極度に洗練されていた。
(090427 第96回 写真は図録)