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紺碧の将

展覧会の図録を読む愉しみ

2018.03.18

 美術展などの展覧会に行って、記念に図録を買うものの、それを読むことはなかった。学者の書いた文章はまったく面白くないし、だいたいが、学術的な記録や分析で終わっている場合が多いからだ。

 しかし、「待てよ」と思った。面白い読み物として読むのではなく、それまで知らなかったことを知るために読む、と考え方を変えれば、案外面白いのではないかと思ったのだ。

 そうやって「北斎とジャポニズム」展の図録に引き続き、川端康成と東山魁夷のコレクション展の図録「知識も理屈もなく、私はただ見てゐる」展の図録を読んだ(「知識も理屈もなく」という文言は、もしかすると、美術評論家に対するあてつけ?)。

これがめっぽう面白かった。それもそうだ。文豪川端はもちろん、東山も豊潤な言葉をもつ人。彼らが「好きで好きで、やむにやまれず」集めた美術品に対する思いを吐露しているのが面白くないわけがない。

 

 例えば、川端が東山の作品について書いた文章。

 ――海の波の音も、川の流れの音も、滝の落ちる音も、その前に長くゐて聞きつづけ、無我になると、海や川や滝のあるのを忘れて、もつと大きい自然の音、広い世界の音、そしてつまり自分がその音になつてしまうやうである。それは静かである。東山さんの海や流れや潮の音は、さういふ音でないかと思ふ。小波ひとつない湖にも声はある。木や家にも声はある。東山さんのすべての絵にある潤ひは、日本の風土の湿度ではなく、東山さんの心の潤ひであり、その潤ひには東山さんのいつくしみの音声がほのかにただよひ、またやはらかくこもつてゐる。(以下略)

 

 また、川端が埴輪「乙女頭部」を評した言葉。

 ――ほのぼのとまどかに愛らしい。均整、優美の愛らしさでは、埴輪の中でも出色である。この埴輪の首を見てゐて、私は日本の女の魂を呼吸する。日本の女の根源、本来を感じる。目は切り抜かれ、裏に深い暗があるから、可愛さは甘さにとどまらない。角度と光線によって、いろいろに見え、無限に語りかけてくる。l(アルファベット小文字のエル)字型の耳は左右をさかさまにつけたような無造作もあるが、天工のおのずからなる名作であろう。とにかく、日本の女の魂の原初の姿である。知識も理屈もなく、私はただ見てゐる。

 

 と思えば、栃木県佐野市で尾形乾山のものと思われる作品が大量に発見されたあとの真贋論争では、一刀両断にこう書いている。

 ――絵が悪い。書が悪い。騒々しくて、品格が卑しい。器の形も悪い。ここで悪いといふのは、乾山のものとはちがふ、乾山のニセモノであるとゐふ意味よりも強い。それ以前の否定である。つまり、だれの作であろうと芸術品として「悪い」のである。相当の芸術家であれば、こんなものを作るはずがない。(中略)乾山ほどの人には、こんな劣弱粗雑な絵はできるはずがないのである。どのやうな状態で描いても、その名作家に宿つた魂と手は失へるものではなく、筆に出ないではゐられない。

 

 なんと鋭い言葉であろう。眼力であろう。彼はそれらをもって長い時間、作品を見つめ、そのなかに内在する〝美〟を感じ取った。

 やはり、この図録を読んでよかった。

 

※悩めるニンゲンたちに、名ネコ・うーにゃん先生が禅の手ほどきをする「うーにゃん先生流マインドフルネス」、連載中。今回は「自分のカラーを大切にする」。

https://qiwacocoro.xsrv.jp/archives/category/%E9%80%A3%E8%BC%89/zengo

(180318 第797回 写真上は「知識も理屈もなく、私はただ見てゐる」展の図録表紙。下は埴輪「乙女頭部」)

 

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