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紺碧の将

語りかけてくる絵

2018.05.13

 4月9日、春の院展の最終日、ひとつの〝出会い〟があった。

 都合の許す限り、春と秋の院展に出向く。最近はマンネリ気味で、ふと「岡倉天心が目指したものはなんだったのか?」と思うことも少なくない。今回も、ほぼノンストップで絵の前を通り過ぎた。なにしろ全部で300点前後ある。ゆっくり見ていたら、日が暮れてしまう。それに幸いなるかな、立ち止まってじっくり見たい作品にはなかなかお目にかかれない。いちおう同人には敬意を表して立ち止まり、それなりに鑑賞するが、それ以外の作品の前で立ち止まることは滅多にない。

 なんでだろう? ひとことで言えば、語りかけてこないのだ。そこに描かれた人物も、風景も、静物も、なにもかもが語りかけてこない(あるいは、語りかける絵であっても私の共鳴共感装置と合わないだけなのかもしれないが)。技術的には優れている人がたくさんいる。見ている側が窒息してしまいそうなほどマジメに制作しているという感じも伝わってくる。でも、シンクロしない。ことほどさように、平面の絵をもって第三者になにかを語りかけるというのは難しいことである。

 それを考えると、雪舟や狩野永徳、長谷川等伯、俵屋宗達など、数百年前に描かれた絵が時空を超え、強烈な波動をもって現代人に語りかけてくるというのはトンデモナイことである。だからこそ、価格がつけられないほど価値があるのだろうが。

 さて、当日、思わず立ち止まり、じっくり見てしまった作品があった。『宮守』とある。大きなイチョウを描いた作品だ。作者は石村雅幸。40号の大きさいっぱいに神々しいイチョウが描かれている。3本の太い幹と細かい枝の数々。葉はかなり黄色みを増し、地面に降り積もっている。木肌のごつごつとした〝皺〟が克明に描かれ、長い間風雪に耐えてきた歴史が刻まれている。この絵が私に語りかけてきた。不染鉄の作品を通して聞いた言葉に近いとも思った。

 いまは便利なもので、ネットで調べ、作者にコンタクトをとることができる。そして、次号の美術のコーナーで紹介することになったのである。

 現在53歳の石村氏は、35歳の頃から巨樹ばかりを描いている。現場に足を運び、2週間も3週間もスケッチをするスタイルは愚直そのもの。雨の日は大きなパラソルをさして樹に向かう。伊豆のスダジイを描くときは、かつてがけ崩れがあって9人が亡くなった場所までよじ登り、崖を背にして何日も描き続けたという。ずっと上を見ているせいか、スケッチ中に倒れて救急車で運ばれたこともある。日が暮れるまで描き、車の中で眠る。そういうことを繰り返し、仕上がった作品は、どれも生命感に満ち溢れている。

「何日もかけて樹を選び、アングルを選ぶ。選ぶ樹は、互いに引き寄せ合うもの。オーラが出すぎている樹は取り憑かれるような気がして怖い。自分と対等につき合える木を選ぶ」

「樹の生命感を出したい。生きているものは、ねじれ、ゆらぎ、形が揃っていない」

「時間をかけて描くから、一瞬のきらめきは描けない。しかし、時間をかけるからこそ描けるものがある」

 石村氏の絵には、日本画独特の間がないことに気づく。あれもこれも描きたくなるのだろう。大きな画面いっぱいに樹が存在を主張している。それでも窮屈感がないのは、よぶんな雑味がないためか。円山応挙に師事した曾我蕭白は、師の教えとはまったくかけ離れた奇想天外な主題で高密度に描く画家だったが、不思議と窮屈感がない。そういうものと通底すると言ったら石村氏に叱られるだろうか。

 石村氏が制作中の貴重な映像がある。

 

 次号では計14ページ+表紙・裏表紙で石村氏の記事を掲載する。作品は全部で9点。右上の『刻』はそのうちの1枚。静岡県伊東市にある葛見神社の楠である(樹齢約1000年)。

 

※悩めるニンゲンたちに、名ネコ・うーにゃん先生が禅の手ほどきをする「うーにゃん先生流マインドフルネス」、連載中。今回は「いい欲と悪い欲」。

https://qiwacocoro.xsrv.jp/archives/category/%E9%80%A3%E8%BC%89/zengo

(180513 第811回 写真上は、岡山県・菩提寺の大イチョウをスケッチする石村雅幸氏、下は『刻』)

 

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