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紺碧の将

ミシシッピ川で考えたこと

2009.12.18

 旅で味わったことは、いつまでも脳の片隅にしまわれているようだ。風景、味、匂い、聴いた言葉・話した言葉、あれこれ考えたこと……。

 1988年10月、アメリカ南部へ2週間弱の旅をした。88年といえば創業の翌年で1年間の個人事業を経て法人にした年。仕事が山ほど入ってきて、ずっと仕事ばかりしていた。社員も5人に増えていた。そういう時期に私は2週間近くも会社を留守にしてしまったわけだ。

 メンフィスにいる友人を訪ねた後、ひとりでニューオリンズへ向かった。ディキシージャズを生で聴きたかったのと、ポール・サイモンの『夢のマルディ・グラ』という曲で得たニューオリンズのイメージがとても魅惑的だったからだ。

 プレザベーションホールというディキシージャズの小屋(ほんとうに古い!)の地べたに座ってライブを聴いたり、ルイ・アームストロング公演をぶらついて野外コンサートを聴いたり、フレンチクォーターでジャンバラヤやガンボスープを味わったり、バーボンストリートのレストランでビールを飲みながら大皿いっぱいの牡蠣を食べたりしながら南部のエキスを少しずつ味わった。ちなみにバーボンストリートのバーボンとはウィスキーのそれではなく、ブルボン王朝のそれの英語読みであり、不味くて有名なアメリカの食事も南部のルイジアナ州はかつてフランス領だったことやメキシコに近いなどの理由で一般のアメリカ料理より格段に味が複雑で旨い。

 

 ニューオリンズではいろいろ考えた。仕事のこと、将来のこと、それ以外のこと。

 あの時ほど将来の自分をきちんと考えたことはない。いろいろ考える上で最適の土地だった。フレンチクォーターから目と鼻の先にあるミシシッピ川の岸辺に座り、ずーっと考えていた。ときどき目の前を大型客船が蛇行し、汽笛をあげるのを聞きながらさまざまなシミュレーションを試みた。

 当時、私は29歳。あと3ヶ月で社屋が完成する予定だった。手付け金を払うために5000万円近い借金をしていた。仕事はたっぷりとあり、会社の評価は日増しに高まっていた。

 そういう状況下、何も考えないわけにはいかなかった。何も考えなければ、惰性という汚れた川に流されるだけだ。

 その時、はっきり思ったことは、場外乱闘の仕事はやらなくても済む生き方をしようということだった。場外乱闘とは接待であったり、無理なつき合いで仕事を得るということ。そういうことをしなければこの仕事ができないのであれば、私はこの仕事に向かないのだと思うようにした。

 仕事をたくさん発注してくれるからといってクライアントに媚びたりへつらったりもけっしてしない、と心に誓った。

 幸いなことに、あれから約23年、そういうやり方で通してきたが、特にこれといって大きな問題はなかった。多いときは会社と個人合わせて1億6000万円くらいあった借金も全部返し終えた。われながら不思議である。それまで私は自分を「社会不適応者」だと思っていたから。

 

 不思議と言えば、バーボンストリートのバーで飲んでいた時、リンダ・ロンシュタットの『ブルー・バイユー』が流れてきて、あまりに空気とその曲がフィットしていて血が逆流するほど感動した。リンダの乾いた、甘酸っぱい声とニューオリンズの乾いた空気が見事に調和していたのだ。そして、帰国した後、発売されていたリンダのCDをすべて買った。今でもその曲を聴くと、当時の様子がリアルに甦る。

(091218 第135回 写真はミシシッピ川の岸辺に座る高久。オートタイマーで撮った)

 

 

 

 

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