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紺碧の将

うーにゃん、虹の橋を渡る

2019.03.30

 いずれ〝その日〟が来ると覚悟していたが、ついにわが家のうーにゃん(本名:海)が息を引き取った。桜が満開の日、虹の橋を渡って天国へ行った。あと数日で20歳を迎えるはずだったのに……。

 こんなに深い哀しみに包まれたことはかつてない。心のなかに、ぽっかりと大きな穴が開いたみたいだ。

「たかがネコじゃないか」

 そう思う人もいるだろう。しかし、ネコだろうがイヌだろうが、心が通い合えば、その死がとてつもなく哀しく感じられるのは当然のこと。

 うーにゃんとは、深く交感した。その様子は拙著『多樂スパイラル』や『葉っぱは見えるが根っこは見えない』にも書いたとおりである。

 いっぽうで、深い哀しみの底に、妙に清々しい気持ちがあることも事実だ。最後の最後まで、きちんと看取ったという実感があるからか。じつに壮絶な最期だったが、うーにゃんは命のひとかけらも残すことなく、いや、ひとかけらもなくなってからでさえ懸命に生きようとした。まさしく、命懸けで生きようとした。そのあっぱれな姿に心を打たれた。荘厳で厳粛で、神聖ささえ感じた。それが心を洗ってくれたのだと思う。

 

 今月25日、私は山梨にいた。夕方、妻から「海が危ない」と連絡が入り、翌日朝、予定をキャンセルして自宅に戻った。

 京都にいる娘は前日の最終新幹線で戻っていた。なにしろ、小学生になったばかりの頃から海といっしょにいる。次の日、会社を休むことにして急遽、駆けつけたのだ。

 容態の急変に驚いた。山梨へ行く前の土日、私は御苑を走る以外、一歩も外へ出ることなく自宅で過ごした。それはとりもなおさず、うーにゃんとともに過ごすということを意味する。前日の午後から食べていないのと水をほとんど飲んでいないのを知っていたが、よもやそんな事態になるとは思いもよらなかった。

 うーにゃんは、ほぼルーティンに従って生活していた。夜は妻といっしょに寝るが、朝6時半頃、私の部屋の扉のところで目覚ましの合図をくれる。それからずっと私の部屋のベッドの片隅にいて、私が仕事をしているのを感じながらスヤスヤと眠っている。私は仕事に疲れると、手を休めてうーにゃんの隣にゴロンと寝て、しばらくじゃれ合う。

 夜の9時頃、私はローソクタイムのため、リビングへ行く。すかさずうーにゃんもついてくる。私が赤い革のソファに座って音楽を聴くのを知っているうーにゃんは、所定の位置に座り、「早くして」と鳴き続ける。「わかったからちょっと待ってて」このセリフを何度言ったことか。CDを一枚選び、バリのお香を焚き、ローソクに火を灯し、ロックグラスにウイスキーと氷を入れ、室内の照明をすべて落としてソファに座るまでが待てないのだ。

 私がソファに座るやいなや、頬を何度も私の太ももに擦りつけ、ゴロンと横になって頭を私の太ももに預ける。態勢が整った後、私は音楽を聴きながら、下腹を揉んであげる。至福の時間である。うーにゃんは下腹を揉まれるのが子供の頃から大好きなのだ。いちばんの急所をあずけるというのは、全幅の信頼の証拠だ。

 話を戻す。

 山梨から戻った私の目に映ったのは、苦しそうに鳴き声をあげながら力なく横たわっているうーにゃんだった。ときどき、後ろ脚が痙攣していきなり跳ね上がる。歩こうとするが、フラフラする。やむなく、後ろ脚を支えてあげる。そうこうしながら、徐々に体力を失っていった。

 家族が大好きなうーにゃんが一人でいるのはつらかろうと、リビングのソファの下にマットレスを敷き、その上に寝かせた。

 その日の夜の出来事だった。立ち上がることもままならないほど衰弱しているのに、うーにゃんはいきなりソファに飛び乗ったのだ。火事場のバカ力どころではない。うーにゃんは、いつものことをしてもらいたいのだ。私がすぐさま横に座ると、いつものように頬を擦りつけ、私の隣にゴロンとなった。

 翌朝、うーにゃんは全身の激しい痙攣に見舞われた。いったい、どこにそのような力があるのかと驚くばかりの勢いで手足を激しく動かす。やがて動きは収束したものの、もう生きる力は残っていないだろうと思えた。怯えた表情で、じっとしている。

 その日の午後、気分転換に新宿御苑の桜を見ようと出かけた。すると、「海が危ない」と連絡が入った。

 すぐに駆けつける。そのときのうーにゃんの顔が忘れられない。ネコがこんなに苦痛に歪んだ表情をするのかというくらい、苦しそうな顔をして全身を痙攣させている。腎臓の機能が停止し、水も飲んでいないため、引き攣るのだろう。「もうすぐ楽になれるから頑張るんだ」そう何度も声をかけた。そのまま死ぬと思った。

 しかし、うーにゃんの生命力は強靭だった。数十分に及ぶ全身の痙攣を乗り越えると、ふたたび小康状態になったのだ。

 娘はすでに2日、会社を休んでいるが、どうしようかと逡巡していた。次の日が〝その日〟になると確信を得たからだ。私が「後悔しないよう、自分で判断しなさい」と言うと、「明日も休む」と言う。3日連続休みだ。世間の常識とははずれるかもしれないが、私は内心、優しい心根をもった人間に育ったことを喜んだ。

 次の日、うーにゃんはじっとうずくまり、家族の会話や音楽を聞いているふうだった。娘は泣く泣く最終の新幹線で帰って行った。

 その後、深夜1時30分頃、ついに危篤状態に陥った。いつあの世へ行ってもおかしくはないという状態が続いたあと、また全身の痙攣が始まった。激しく手足をバタバタさせてはウー、ウーと鳴く。やがて収束する。数分後、再び痙攣。

 なんと、それを数十回も繰り返した。鳴き声がウーから切ないアーに変わり、そのうち、ビールを飲んだあとのため息のような声になった。

 気がつくと朝になっていた。寝不足に弱い私は、最期を看取ろうと懸命に耐えたが、あえなくダウン。仮眠をとって、ふたたびうーにゃんに寄り添う。

 その日(29日)は穏やかに過ぎた。首から上はなにも動かない。瞳孔はほぼ開き、声も出ない。口は大きく開いたままだ。首から上だけ見たら、だれもが死んでいると思うはずだ。しかし、注意深く見ると、体のどこかが動いている。5日も飲まず食わず、しかも人間なら100歳くらい。全身を消耗する痙攣を何十回も経てなお生きている。

 命の仕組みの妙を思わざるをえなかった。簡単には死ねないようにできている。完璧なまでのその秩序に感嘆する。

 うーにゃんは一分でも一秒でも長く生きたかったのだ。家族といっしょにいたかったのだ。

 思えば、1999年7月20日、うーにゃんは明らかにわれわれを見定めて現れ、目を閉じながらあらん限りの声で「拾ってください」と訴えた。「拾っちゃダメ」という私の声を制して、娘が抱き上げた時、うーにゃんは家族の一員になった。

 そういえば、こんなことがあった。娘が大学を卒業する記念に2泊で旅行をすることになり、「お留守番を頼むね」と何度か言っているうちに、下痢になってしまったのだ。下痢になったことなどないネコなのに……。以来、「おるすばん」は禁句になった。

 夜、9時頃、いよいよあの世へ行く前だとわかった。ほんとうに虫の息なのだ。私と妻は話しかける。するとどうだろう! 体力はみじんも残っていないはずなのに、声にならない声で、息を強く吐くのだ。うーにゃんは力を振り絞って、いや、力なんてまったく残っていないのに、懸命に答えようとしてくれたのだ。

 娘にラインして「最後に海に話しかける?」と聞くと、「そうする」と返事がきた。電車に乗っているけど次の駅で降りる、と。

 スマホをうーにゃんの耳に当てる。娘はうーにゃんに語りかける。うーにゃんは聞き耳をたて、同じように声にならない声で何度も息を吐き出した。「お別れだね。今までありがとう」とでも言うかのように。人間も、最期まで耳は聞こえるという。まして、ネコの耳はいいし、うーにゃんの耳はフェネックギツネ君のように大きい。

 そして9時35分頃、〝その時〟がわからなかったほど、静かにこの世を去った。驚くことに、一夜明けたあとも、うーにゃんの体はさほど固くなっていない。平安のうちに逝ったからかもしれない。

 

 思えば、私が39歳の時にきたうーにゃんには多くのことを教えられた。とりわけ、作為のないことの尊さを。

 ある時期から、私は仕事において、作為を弄さなくなった。もともとそういう傾向は少なかったと思うが、それでも厳しい競争社会を生き抜く必要はある。しかも、生業は広告の制作だ。作為を弄することが仕事と言ってもいい。

 しかし、なんとなく作為的なことがバカらしくなった。それよりも、目の前のことに真摯に取り組もう、と。まさしく一行三昧。その時期とうーにゃんがやってきた時期が重なる。私は知らず知らず、うーにゃんに感化されていたのだ。30代の最後から40代、50代と、円熟の時代をうーにゃんと過ごした。

 それ以降、多くの利益をあげる会社ではなくなったが、その分、根をしっかりと張っているという実感がある。時代が変わっても、柔軟に対応できるという自信につながった。すぐに得ても、それはすぐに失われてしまう。それよりも、目の前の仕事に真摯に向き合う。その連なりがいい結果を生むはずだと思った。いや、結果を意識することさえしなくなった。そして現在に至る。だから、うーにゃんは、娘にとってのみならず、私にとっても先生だったのだ。

 いっぽうで、人間のあさましさに失望した一件も書いておこう。

 火葬の依頼を電話でした。自宅まで遺体を取りに来てくれ、焼却炉のある特殊な車のなかで焼き、壺に入れて届けてくれるサービスだ。都内はほとんどこのシステムである。

 ホームページを見ながら「基本プランでお願いします」と言うと、「それは特殊なプランで、直接焼却炉に載せて焼きます。他のプランでしたら、ダイオキシンが発生しない布団を使用し……」などと説明する。

 私はそれでも基本プランでいい、折り鶴と桜の花びらを添えていただければ、と言った。すると、またダイオキシンがどうのこうのと面倒なことを言い始める。妻と娘が鶴を折り、御苑で桜の花びらを拾ってきたのだ。

「折り鶴と桜の花びらはダイオキシンが発生するのですか」と訊くと、しぶしぶ了承した。

 さもしい、あさましい。仕事だから少しでも売上を高くしようとするのはわかる。しかし、すべてが「自分本位」なのだ。

 先日とある保険の解約を申し込んだ時もそうだった。相手のオペレーターは「お客様の不利益にならないように」と前置きしながら、なんとかして解約を断念させようとする。しかし、あれは「自分たちの不利益にならないように」していることは火を見るより明らか。とにかく自分のこと、自分たちのことだけなのだ。

 心を失い、ただ機械のように働く人がなんと多くなったことか。その行き着く先が、現在の「一人でいても誰かといても寂しい」と感じる世相だ。その傾向は今後ますます強くなるだろう。

 ま、そんなことはどうでもいいか。

 うーにゃん、ありがとう。大切なことをたくさんたくさん教えてもらったよ。ほんとうにありがとう。20年間、いっしょに暮らせて幸せだった。

 

 ※うーにゃん先生、最後の出番。

うーにゃん先生流マインドフルネス「日々の生活が人をつくる」

https://qiwacocoro.xsrv.jp/archives/1055

 

「美し人」公式サイトの「美しい日本のことば」をご覧ください。その名のとおり、日本人が忘れてはいけない、文化遺産ともいうべき美しい言葉の数々が紹介されています。

https://www.umashi-bito.or.jp/column/

(190330 第889回 写真上:在りし日のうーにゃん。中:死の2日前。目に怯えの色がある。下:拾ってから1〜2ヶ月。耳がやたら大きい)

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