信玄の軍略道路〝棒道〟を歩く
豊かな米どころと日本海への突破口を確保する意味でも、武田信玄にとって北信濃攻略は悲願であった。
それを迅速に進めるため、信玄は軍略道路の整備をした。八ヶ岳山麓をほぼまっすぐに走っているため、棒道と呼ばれるようになったという。『甲斐国志』によれば、棒道は上・中・下の3本あったとされるが、現在確認できるのは上の道のみ、と案内板に書かれている。
百聞は一見にしかず、まずは歩くことにした。
棒道は甲斐小泉駅近くの三分一湧水あたりから小淵沢周辺まで整備されている。まず、車を「道の駅こぶちざわ」に停め、約30分歩いて棒道に入る。林のなかを縫うように走る道は、一見したところ、ふつうの林道と変わらない。道幅は狭いため、軍列はせいぜい一列か二列だったろう。このような道を、現茅野市を通り越して大門峠まで造ったのだから、その執念には恐れ入るばかり。
4月半ば、この地ではまだ満開の桜を見ることができる。平日だったためか、棒道を歩く人はひとりもいなかった。当時は甲冑などを着けて大軍が歩いたのだから、物騒な音が響いていたはずだが、私が歩いた日は静まり返っていた。砂利や小石を踏みしめる音、風が枝を揺らす音、そして鳥たちが言葉を交わす音……。平和な世に生まれてよかったとあらてめて思う。
ところどころに観音立像が立っている。信玄が生きていた頃からあるのだろうか。だとすると、観音立像は歴史の証人でもある。
信玄の驚異にさらされた村上義清ら北信濃の豪族たちは、越後の上杉謙信を頼ることになる。それがやがて5度にわたる川中島での決戦へとつながる。
もし、北信濃が緩衝地帯のままだったら、信玄と謙信の激突は起こらなかったはずだ。信玄が謙信と不戦条約を結べば、目を織田信長や徳川家康に向けたことだろう。そうなると、信長の天下布武もどうなっていたかわからない。歴史に〝もしも〟はご法度だが、信玄と謙信の両雄が5度も戦っていなければ、戦国時代の勢力図は大きく変わっていたはずだ。
北信濃への攻略と併せ、諏訪頼重を自害させたことも、あとあと複雑な因果関係の元となった。信玄が頼重の娘・湖衣姫を側室にしたことによって家督をその子・勝頼に譲ることになるからだ。勝頼は武田家を滅亡に導いた凡愚の将と言われることが多いが、実際はかなり有能な将だったらしい。陽極まれば陰となるの定石通り、最強を誇るものは、いずれ滅ぶことになるのだ。『武田氏滅亡』(平山優著)を読むと、武田氏滅亡は時代の流れ、誰が国を治めていてもその命運は変えられなかったということがわかる。
棒道の役割を知るにつれ、〝もしも〟と想像を膨らませてしまう。それもまた歴史の妙味なのだろう。
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(190426 第895回 写真上は小淵沢の棒道。下は観音立像)