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紺碧の将

川中島古戦場、実地検分

2019.06.04

 新田次郎著『武田信玄』を読むのと並行して、川中島の合戦場を訪れた。

 武田信玄と上杉謙信は、戦国最強として並び立つ。信玄が北信濃へ侵略した結果、その両雄が国境を接する事態になったことで、たびたび衝突が起こった。それまでの3回は正面からぶつかったわけではなく、互いに深手を負わないよう、小手調べの様相があった。しかし、八幡原を舞台にした永禄4(1561)年の第4次の戦いは、両軍3万数千人が正面から激突した激しい戦いだった。

 ことの起こりは、信玄が海津城を築城することから始まる。それが完成すれば、北信濃は完全に武田氏の支配下におかれる。信玄はその後の政治を考慮し、戦うための城ではなく、治世に適した平城を構築する。

 八幡原を睥睨できる妻女山に上杉軍が陣取った。海津城(現在の松代町)から見ると、見下されているわけだから、武田軍にとってはそうとう居心地が悪かっただろう。

 対する武田軍は二手に分けた。本隊8千人は八幡原で鶴翼の陣をとり、別働隊1万2千人を妻女山の裏手から叩いて山を下らせ、挟撃するという戦法をとった。いわゆる、キツツキ戦法である。

 じつは、この戦いで重要なポイントは、天気予報にあった。いつ、濃霧が発生するか。土地の気象に詳しい人を拉致した上杉軍が、それによってアドバンテージを得る。

 9月10日、予想通り、一帯は濃霧に覆われた。別働隊の動きを察知した上杉軍は、すかさず山を下り、早朝、霧が薄れた頃、武田本隊の正面にいた。一方、武田の別働隊が妻女山の頂上に着いたとき、そこはもぬけの殻だった。

 武田本隊と上杉軍が正面からぶつかれば、数のうえで圧倒的に上杉軍が有利だ。車懸りの陣で怒涛の攻撃を仕掛け、武田本隊の右翼が崩れていく。別働隊の到着が、あと1時間も遅れていれば、信玄の首は胴体から離れていたかもしれない。

 前半は上杉軍有利に運び、別働隊が到着してからは武田軍の一方的な勝利となった。

 両軍ともおびただしい数の死傷者を出したが、以後、北信濃一帯は完全に武田氏が掌握することになる。

 458年前の出来事を頭に描きながら、妻女山から八幡原や海津城近辺を見下ろし、海津城から妻女山を見上げた。そして、激戦地となった川中島で当時の様子を想像した。

 そうとは知らず、千曲川や犀川の水は、当時と変わらず、滔々と流れていた。

 歴史に思いを馳せるということは、万古不易の真理に近づくということでもある。

 

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(190605 第906回 写真上は妻女山から八幡原を望む、中は海津城跡、下は合戦図)

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