最後のフーガ・パーティー
去る4月28日、『fooga』の最後のパーティーが宇都宮のオトワレストランで行われた。
サポーター、執筆者、そして特集で紹介した方々などを合わせ、約70人が集まり、有終の美を記すことができた。
このパーティーを開いてもらった立場として、まずこの場を借りて感謝の気持ちを述べたい。
冒頭のスピーチでも言ったが、8年間の『fooga』編集によって、最も恩恵を受けたのは私である。その都度、目の前の取材対象に対して最善を尽くしてきたという感があるが、それによって予想していなかった、さまざまなものを得ることができた。「雑誌編集ではなく人の編集である」、と常々思ってきたが、そのことを再認識できたパーティーであったと言っていい。
それにしても、個性豊かな、と言えばスマートだが、アクの強い人が集まったものだ。皆、それぞれのフィールドでなんらかの成果をあげている人たちばかりである。そういう人が、自己顕示ではなく素直な心で人の功績を賞賛できる空気というものがこれほど清々しいものか、と思い知った人も多かったにちがいない。
冒頭の和久文子さんによる箏の演奏は、まさに日本の文化の底力そのものだった。伝統的な箏の精神を保ちつつ、黒人特有のシンコペーションを取り入れたり、パーカッションの要素を取り入れたり、と、世界の演奏技法をうまく消化しているのだ。これは、いにしえから続く日本人の懐の深さである。一見、相容れないものをうまく消化し、新たな価値を築く能力を日本人はもっているのだ。
その後は、私が一人ひとり紹介し、簡単なスピーチをしてもらった。予想以上に時間がかかってしまったが、それでも皆、真剣にそれぞれの話を聞いていた。珍しいケースだったと思う。
さて、「『fooga』の休刊を惜しむ声は存外多かったが、当の私はスッキリしている。やるだけのことはやった、という充足感があるからだ。止めるタイミングも絶妙であったと思う。
いつも思うのだが、退く時の判断をまちがったことはない。途中、あれやこれやと悩むのだが、最後は「えいやっ!」と何かが背中を押してくれる。もちろん、それは私専属の守護神なのだろう。
ありがたいことである。私が自分の「勘」だけに頼っていられるのは、その見えない力のおかげである。
(100523 第169 写真は演奏前の和久文子さん)