娘の成長を綴った観察記
今年は自著の刊行が続いている。1月の『葉っぱは見えるが根っこは見えない』、5月の『結果をだす男 中田宏の思考と行動』に続き、『父発、娘行き』を刊行した。聞き書き、監修ものを含めると、18冊目の本となる。
娘が生まれた日、なにものかに衝き動かされるようにして書いた文章を皮切りに、社会人になるまでを綴った観察記で、娘が大きくなったら束にして渡そうと思っていた。ごくごく私的な内容だから、公にするなど毛先ほども考えていなかった。
ところが、『葉っぱは見えるが根っこは見えない』に、娘が生まれた日に書いた文章を掲載したところ、「娘さんについて書いた章がいちばん面白かった」「その後の文章も読みたい」という声をいくつかいただき、久しぶりに通読した。大半は私的なことだが、なかには普遍的な記述もあることに気づき、恥を忍んで世に出すことにした。
はじめは毎月1本のペースで、思春期を過ぎて接点が少なくなってからは思いついたときに。そうやって書き続けた原稿は、全部で102編、400字原稿用紙換算で約800枚。よくも書き続けたものだとわれながら感心する。うち22篇を削除し、1章をつけ加えることにした結果、全部で81章構成となった。勘のいい方ならすぐピンとくると思うが、『葉っぱは見えるが根っこは見えない』や「老子」と同じ数である。心のどこかに、81という数字へのこだわりがあることは隠しようがない。
通読し、あらためて思ったことは、とにかく時間を見つけていっしょに遊んだということ。読みながら「ああ、あのとき、こんな話をしたなあ」とか「そういえば、こんなことを考えていたんだっけ」というようなこともたくさん思い出した。写真ではけっして残らない、貴重なものがたくさん書かれていた。
親になるということは、親バカになるということだとあらためて痛感した。幼少期は、なにかにつけワケもなく親バカ度が上昇する。あとから振り返れば滑稽以外のなにものでもないが、当人は大マジメだからなおさらおもしろい。歳とともに親バカ度は急降下し、落ち着くべきところに落ち着く。その変遷がおもしろい。
金魚のフンのようにあとをついてきた娘が、ある時期、手のひらを返したように素っ気なくなる。成長した子供をもつ人ならだれもが体験しているはずだ。そのあとどういう関係になるかはさまざまだろうが、ひとつ言えることは、子供が無邪気な時期にともに遊んだという記憶は、時間の流れに摩耗することなく、ずっと脳裏や体に刻まれる。それは心のなかの宝物となり、後年思いもよらぬ僥倖をもたらしてくれる。それがあれば、一個の人間同士として再び向き合ったとき、互いへの信頼感が揺らぐことはない。
だから、幼少期の子供をもつ友人・知人に助言する。多少、仕事を犠牲にしてでも、いっしょに遊ぶ時間をつくった方がいいよ、と。ぐずぐずしていると、子供はあっという間に思春期を迎える。そのときになって子供と肌の触れ合う交流をもちたいと思っても、時遅しだ。
タイトルは『父発、娘行き』としたが、じつは双方向の旅でもある。子供が成長するということは「子育ち」であると同時に、「親育ち」でもある。けっして一方向から与えるものではない。そんなことを感じてもらえる本ではないかと密かに思っている。ちなみに表紙の装画は日本画家・芝康弘氏による『まなびの刻』。興味のある方は以下のサイトにてお申し込みください。
https://www.compass-point.jp/book/chichihatsu.html
髙久の本質論 『葉っぱは見えるが根っこは見えない』発売中
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「美し人」公式サイトの「美しい日本のことば」。日本人が忘れてはいけない、文化遺産ともいうべき美しい言葉の数々が紹介されています。
https://www.umashi-bito.or.jp/column/
(190827 第927回)