「老子」丸ごと暗記
昨年7月頃、なにげなく始まった「老子」の暗唱・暗記が、9月29日、ひとまず終了した。「ひとまず」と書いたのは、一度覚えたはずなのに忘れているところもあるからだ。
しかし、一度記憶したものはすぐに思い出せるし、脳や体のどこかに浸透しているはずだ。なにより、文面を見て直感的に意味が思い浮かぶ。一度完全に覚え、書くことができたというプロセスを経ているからだ。
ゴール直前、驚くべきことを体験した。28日、最終章の「第八十一」に着手し、いつものように使用済みの〝裏紙〟に全文を手書きをし、テキストで意味をなぞった。それまで「老子」にしつこいほど書いてある内容であったため、文の流れや意味はすぐにつかむことができた。
その日の夜、睡眠中のこと。なんと眠りながら勝手に脳が動いている。はじめの一節から一文字ずつ反芻し、ある程度のところまでいくと思い出せずにつかえる。それでも考える。つまり、夢のなかで暗記を繰り返していたのだ。だから朝起きて、テキストを見た瞬間、すべてが頭に入った。夢のなかでどうしても思い出せず、執拗に考え続けた箇所の答えが目の前にあるのだから、頭に入ってこないはずがない。人間の脳というのは恐るべき可能性を秘めていると実感した。
約1年3ヶ月の間、毎日コツコツと覚え続けてきたことの、ささやかな達成感に浸っている。当初から、やり通すことができるという気持ちはあった。旅先や出張の際も休むことなく続けた。思いつきで始めることは誰でもできる。要は、新鮮味がなくなってきた頃、持続できるかどうか、だろう。
問題は、覚えたあとの「これから」だが、一度丸呑みしたものを後生大事に抱え込むつもりはない。「尽(ことごと)く書を信ずれば、則ち書無きに如かず」という孟子の言葉にもあるように、書物(あるいは人の話)をすべて信じ込むことは賢明ではない。無謬性が成り立つのは宗教の世界だけだ。私は盲信はしたくない。
暗唱・暗記と同時に、「老子」の全文を入力する作業を進めてきたが、そのなかから自分にとって必要な部分と不要な部分を選別し、エッセンスを抽出した。老子は紀元前5世紀頃の人であり、もともと隠遁の傾向が強い。そのような人の処世訓や政治論は、現代に当てはまるとは限らない。
「老子」の最も重要と思われるものは、宇宙的視点、全体的・包括的な思考法である。それらを自分の心身に落とし込み、今後の人生の糧とする。それができなければ、学んだ意味がない。自己満足で終わってしまう。そのため徹底的に推敲した。
その結果、ワードファイルで「老子」のエッセンスが残った。それを毎日開き、体の髄まで沁み込ませようと思う。
振り返れば、今からちょうど10年前、田口佳史先生の講義で「老子」に出会った。それまで名前くらいは聞いていたが、どのような思想であるか、皆目知らなかった。その頃の自分と比べ、今の自分は別人という気さえする。
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(191015 第939回 テキストにしたのは田口佳史著『老子道徳経講義』)