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紺碧の将

『新古今和歌集』で感性の鍛錬

2019.10.19

「老子」の暗唱・暗記がひとまず終了したあと、なにに挑むか。「老子」の後半にさしかかった頃、あれこれと思い巡らしていた。

 じつは、それが至福の時なのである。書棚を見回しては、手をつけていなかった書物を開く。数多く手にしたのが、『万葉集』であった。平成から令和に代わったことだし、ここらへんでいっちょう『万葉集』にチャレンジしようか、と。

「老子」を終えた翌日、つまり9月30日、最初の見開きを読んだのだが、どうもピンとこない。悪くはないが、ダイレクトに心に響いてこない。

 無理をしているのかもしれないと思った。そこで、『新古今和歌集』はどうかと思った。幸い、十数年前に神田の古書店で購入しておいた新潮社の化粧箱入り上下2巻組がある。化粧箱は汚れているが、中身はまったくの新品同様。『新古今和歌集』なら好きな西行や藤原定家など、馴染みの歌もたくさん入っている。

 まず、後鳥羽院による序文を読む。驚いた。着想がとっぴ。冒頭の文を現代語訳で紹介する。

 ――大和の国の歌は、昔天地が開け始めて、人の営みがまだ始まっていない時に、日本の言葉として櫛名田比売、素戔嗚尊が住んでいた里より伝わった。

 

 どお? すごいでしょう? だって、この国が誕生し、人々が生活を始める前から歌は日本の言葉として残っているというのだから。「日本人が詠う前にだれが詠っていたんだよ」と突っ込みたくもなるが、それは櫛名田比売や素戔嗚尊などの神々だという。いやあ、恐れ入った。スケールが大きすぎる。神々の言葉が『新古今和歌集』を編纂した時代まで受け継がれていると冒頭で言い切っているのだ。

 

 私がテキストとした本には、見開きで6〜7首が収められている。歌の上、欄外に細かい字で説明・解説が付されている。それらを読んで、これはと思ったものをワードに写し、何回も諳んじる。

 朝のコーヒータイム、7年くらい続けている禅語の筆記を20本くらいこなしたあと、諳んじた歌を書く。その後、自分で推敲した「老子」のエッセンスをワードで読む。これが朝の頭の準備体操だ。

『新古今和歌集』を読み始めて、あらためて当時の日本人の豊かな感性と日本語の持つ特異性に感動している。自然と心情を絡めながら、独特の表現をしている。読み進めるうち、ため息が漏れてくる。ため息には2種類が混じっている。ひとつは、感銘を受けてのそれ。もうひとつは、自分も含め、現代人の殺伐とした心情の荒廃である。

 もっとも、それを嘆いていても詮ないことだ。そう思っているのなら、あくまでも自分が変わればいいのだ。人それぞれなのだから、世の中をとやかく言っても始まらない。

 しばらくは『新古今和歌集』を座右に置いて、感性を鍛錬しよう。

 

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(191019 第940回)

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