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紺碧の将

古い物がいっぱい

2019.10.31

 有楽町の国際フォーラム広場で開催されている「大江戸骨董市」に足を運んだ。

 骨董市に行ったのは初めて。いや正確にいえば、かなり前パリのクリニャンクールに行ったことがある。

 小道具、古美術、古雑貨、古本など、古いものが所狭しと並んでいる。玉石混交、目が回るようだ。ガラクタの類から横山大観、菱田春草の掛け軸、李朝の花器(本物かどうかはわからないが)などもある。

 面白い!

 少なくとも、新品が並んでいる雑貨のショップよりだんぜん面白い。

 物の背景に広大な時間の広がりがあるからだ。

 世の中で最も過酷なもののひとつが、時間だと思っている。時間はあらゆるものを風化させる。生き物も物も名声も記憶も芸術的価値も。「Out Of Sight, Out Of Mind」という諺があるくらいだから、目にしなくなれば人は簡単に忘れてしまう。

 それにもかかわらず、現代にまで生き残っていること自体、並みのものではないと証明しているようなものだ。だから20世紀半ばくらいまでのもので今に残っているものは無条件に本物だと言い換えてもいい。バッハもモーツァルトもベートーヴェンもマーラーもミケランジェロもベラスケスもゴッホも俵屋宗達も紫式部も西行もシェークスピアもバルザックもヘミングウェイも、そしてビートルズも。

 物も同じだ。簡単に捨てられてしまうのが物の宿命。なぜなら現代文明の要諦は「物を捨てること」だったのだから。捨てなければ、新たに作れない。新たな物の居場所を確保するために、人間はどんどん物を捨ててきた。だから、現在に至るまで人に愛でられてきた、あるいは愛でられずとも所持されてきた物たちは、どこか風格がちがう。

 友人はたくさん購入し、両手にわんさと持つほどだったが、私が買ったのは栞と北欧の植物のリトグラフだけ。じつにチマチマした買い物だった。

 しかし、「たつのひげ」の葉っぱを押し花にした栞は気に入っている(写真)。名前のごとく、茎に無数のひげが生えている。店の人の話によると、昭和30年頃に作られたのではないかという。そういう時代に、このようなものを作ろうとした人の想いが健気だ。仮に昭和30年代だとすると、60年も生きたことになる。私と同年代だ。私は6冊の本を並行して読んでいるが、小説の栞としてこれを使っている。小説を読むことは感性や想像力を喚起する行為でもある。それにふさわしい栞といえる。

 もうひとつのリトグラフも気に入っている。やはり植物のモチーフは美しい。いつか額装し、どこか目立たないところにでも掛けておきたい。

 ときどき骨董市に足を運び、気脈の通じた物との出会いを楽しみたいと思うが、足抜けできないほどハマるのは危険だと友人にも忠告された。古い物はそういう危険な香りを放っている。

 

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